自由ーフリーダムー

アイ アム ザ  ゴーイングマイウェイ

ご挨拶。

こんにちは('ω')ノ! 

桐原歌子(きりはら うたこ)と申します。

ようこそ花凜文学27’(かりんぶんがく27’)へ!

  

***以下、お読みくださいませ(*'ω'*)*** 

 

*こちらのサイトはプロの作家になりたい小説家志望者が個人で運営するブログであります。

*完全なる個人営業のため、責任も権利もすべて桐原にあります。

*創作する物語はすべてフィクションです。実在する団体や事件などとは一切関係ありません。

*雑誌や漫画などの感想を書くときは、雑誌名・出版社・記事を書かれた方のお名前を引用元として抜粋致します。

 

☆桐原の特徴☆

 

季節の変わり目、大きな天候の変化にかなり弱いです。そのため、当ブログの更新はかなり不定期になります。特に春から梅雨前線が来るまでの時期は冬眠が必須)

  1. 「梅雨明けです!」のニュース速報と同時に長い眠りから目覚めます。……と思ったら秋雨前線でまたこけます(^^;) 扱いづらい身体ですが、ご理解のほどよろしくお願いします。
  2. 調子がいい時と悪い時の差が激しく、悪い時期はブログから遠ざかっています。桐原自身気をつけていますが、もしも「ん?」と読者様に違和感を抱かせてしまった場合、謹んでお詫び申し上げます。

 ***それでは、お楽しみください~(^_^)***

 

 

☆活動中のSNS

 

『(*‘ω‘ *)誰でも見ることができます。』

Twitter・heartnight16

 

*ユーザー登録必要(無料)*『(*'ω'*)登録しなくても閲覧はできます。』

カクヨム・現在こちらで一人編集長(笑)をしております。

花凜文学(@karintou9) - カクヨム

 

note・クリエイター活動はこちらでやっております。

 

note.mu

 

↓「つきみ詠子」で作り直しました。('ω')ノ

小説家になろう

 

 

 

連絡先

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(*を@に変えて送信してください)

 

作品のご案内。

*作品集*

 

長編小説

1 Mary the phantom (マリー ザ ファントム)➖大怪盗魔梨花

異世界ファンタジー」「女怪盗」「宝石強盗」「盗賊狩り」「22世紀の仮想日本」

カクヨム小説家になろうにて連載予定*

 

2 Missing White (ミッシング ホワイト)

異世界ファンタジー」「パワーストーン」「宝石」「アンティーク・ドール」「人形」「ぬいぐるみ」「女主人公」「少女小説

カクヨム小説家になろうにて連載予定*

 

3 空から天使が舞い降りる

「学園シリーズ」「青春」「恋愛」「学校生活」「キラキラ≠楽しい」「屈折と不安」「思春期~青年期」「十代小説」

☆構想中☆

 

4 ぼくの名を呼んでほしい

★「空から~」と同じ世界観の物語です★

ブログ中心に執筆いたします。改題や改稿を繰り返してしまいますが、ご容赦を。

 

5ARISA HANSEL 《アリサ=ヘンゼル》

 ARISA-Crescent 《アリサ=クレッセント》

タイトルまだ考え中。

途中でお話が枝分かれする可能性があるため、色々な投稿場所にて執筆します。

戦うお姫様小説です!カクヨム小説家になろう、ブログにて連載いたします。

 

短編小説

小説家になろう」にて掲載予定。

 

連作シリーズ作品(群像劇・オムニバスなど)

小説家になろう」「カクヨム」にて発表予定。

 

詩文・散文・ポエム

ブログのみ。 

 

エッセイ・日記

ブログのみ。 

 

雑誌(芸能・音楽関係)などの感想

裏サイト「ヲタ活。」または「花凜芸術」にて発表予定。 

 

本(小説や漫画など)の感想

 こちらで上げる予定です。

 

エンタメ私小説 第二弾 『きっと明日はいい天気』最終話

 

red-pink16.hatenablog.com

 

red-pink16.hatenablog.com

 ここで完結です。m(__)m。

 

   『きっと明日はいい天気』

 

   最終話(第3話)

 

   三 青花翠(あおはな みどり)

 

 記憶の中の妹は、いつも泣いていた。厳格な祖母に叱られ、両親も働いていて家を留守にしていたため、泣きつく先は必ず兄の自分のところだった。翠はその時、この無力で小さな妹を突き放したら、置いていったら、どうなるのだろうという思いにかられた。それは唐突で、現実味のない邪念だったけれど、やけにリアルに翠の頭にこびりついていた。

 祖母は、妹のほうをよく叱っていた。泣きわめく頻度が自分より多かったからだ。翠は身体の具合の悪さでだるく沈んでいたことはあっても、喘息が起こる夜以外はわりと静かだった。悪目立ちしていたのはたいてい妹だった。

 翠の記憶に鮮明に残っているのは、大学病院の診察室だ。

 大人の男の先生が、聴診器を翠の胸に当てて真剣な顔で考えていた。診察台のベッドに寝かされ、何やらごちゃごちゃした機器をつけられた。あの時の母の不安そうな顔は、ずっと翠の脳裏に焼き付いている。妹も一緒に連れられて、父の付き添いで診察を受けた。

ぜんそく」という言葉は、当時の自分にはまだぴんと来なかった。診察を終えて会計待ちの座席に座っている時、母が妹の手を握って父の横顔を果てのない悲しみのような表情で見つめていた。父は、一言、「嘆いても何も始まらんぞ」と言い切った。それは突き放しているようでどこか温かみのある言葉だった。翠たち四人家族は、黙り込んでいた。

 帰り道、母がレストランで昼食を取ろうといいだした。「だってこんな時間になっちゃったじゃない」と明るく言い、近くの大型ファミリーレストランを見つけた。その声はどこか無理のある明るさだったが、父も合わせて「お前たち、何が食べたい?」と優しく問いかけた。翠は妹の手を握って車道側を歩きながら、「ラーメン」と言った。すると両親はおかしそうに「もう少しほかのものも食べなさい」と笑った。翠はどことなくほっとした。妹は頭が痛むのか、翠の手をギュッときつく握りしめて俯いていた。

 昼時が近い病院からの帰り道は、車が頻繁に走っていて、翠は気をつけて歩行者の白線の内側に妹を歩かせた。親からのいいつけで、それはもう身に沁み込んでいたことだった。

 空の色は、まだ思い出せない。

 

 三学期が始まった真冬の雲一つない晴天。翠はジャージのファスナーをしっかり締めて持久走の準備運動をしていた。周りの生徒たちは適当に身体を動かしながら、仲間と気だるげな会話をしている。日光が気持ちいいのか、寒い寒いと言いながら女子たちは互いの手をさすり合っている。翠は一人外れたところで身体を温かくさせるために勢いよく手や足をのばしていた。準備運動さえしっかりやっていれば、少なくとも倒れるようなことはいい加減ないだろう。

 体育教師が合図をして、皆は一列に並んだ。翠は一番端の位置に行き、深く息を吸った。笛が吹いた。わっと皆が一斉に走り出した。友達同士と並びながら、三十人の生徒たちは思い思いに固まって校舎一周の持久走に励んだ。

 真冬のランニングは気持ちがいい。冬は早朝がいいものだと枕草子が書いていたが、長い時を経た今の日本でもそれは当てはまるようだ。しんと冷えた空気に風が頬を撫で、吐く息が白く見える一時限目の授業。翠は皆に遅れないように走るスピードを調整しながら、夕莉のいるデイケア組の校舎の裏を周るため、生徒たちの後ろをついて行った。

 下り坂に差し掛かり、草木の生い茂る裏道を慎重に走る。下りの走りは勢いがつくが、スピード調整が難しい。ここでバランスを崩す者も少なくない。自分もその一人なのだが。

 今日は大丈夫。そう言い聞かせて、翠はチラッとデイケア組の校舎を見た。窓に目をやると、窓際の生徒たちのほぼ全員がつまらなそうに頬杖をついて外を眺めていた。よっぽど退屈な授業なんだな、と翠はふと笑いたくなった。夕莉を探していた。無意識に。名字は最初だから、席替えをしていなければ最前列の窓際の席のはずだ。注意深く視線を動かしたが、夕莉の姿は見えなかった。学校を休んでいるのだろうか。自分は今、実家にはいないので彼女の事情は分からない。

 自分は彼女を捨てた。そのはずなのに、今もなお面影を追っている。自分の片割れを。分身を。

 校舎を過ぎ、坂を下り終え、Uターンして上り坂に差し掛かる頃、息が切れ始めた。とたんに呼吸が苦しくなり、ゴホッと嫌な咳が喉から出た。徐々に失速する。だめだ。倒れてはいけない。迷惑をかけてはいけない。自分はもう普通の人間なのだから。翠は懸命に自身に言い聞かせた。けれど足がもたつき、重くなった。汗が噴き出ていた。ジャージのファスナーを開けて半そで姿になる。腰にジャージを巻き付け、息を大きく吐いて吸ったりしながら、緩やかな傾斜を進む。上り坂は皆にとってもきついらしく、すでに歩いている生徒がいた。せめてこの人には負けたくないと思い、走る速度を落とさずに坂を駆け上がる。先まで、あと少し。上り坂を超えたら次は本校舎に戻るだけだ。できる。もう何度も失敗したのだから、今度こそは走り切る。

 それでも、息は途切れ始めていた。翠の意思とは裏腹に、身体は悲鳴を上げている。急に、目の前が暗くなった。大きな黒い丸穴が点々と視界に見え始めた時、景色がぼうっと色を失くし、頭が非常に熱くなった。坂を上り切ったと思った瞬間、体重を支え切れなくなって、翠はガクンとそのまま地面に倒れた。

 

「保健係、あとは頼むぞ」

 体育教師に背負われて本校舎の校門に着き、クラス全員の目に見つめられながら翠はよろよろと二人のクラスメイトに腕を引かれて保健室のほうへ歩いた。体育教師が自分を探している間、クラスの皆がどんな話をしていたのか簡単に想像できた。あいつ、まただよ。もう体育出ないほうがいんじゃないの? 何で出るの? 迷惑かけんなよ。彼らはこういう会話を翠に直接聞かれないように陰でかわすのが実にうまい。巧妙に翠のいない隙を狙って、翠がどれだけ自分たちのクラスの足を引っ張っているのか語り合うのだ。笑顔だけ取り繕って、他愛のない日常会話を混ぜ、翠に愛想笑いをしながら口裏を合わせて貶める。こんなクソみたいなクラス、早く無くなってしまえばいいのにと翠は仕返しに思っている。それが態度に現れているようなので、翠の周りから人が消えるのは案外早かった。もともといたわけではないが。

 体育教師のもとに集まる皆の楽しそうなざわめきから外れて、翠は二人の保健委員に支えられながら下駄箱で上履きに履き替え、ホールを通って保健室へと入った。

「青花、やっぱりデイケア組に戻ったほうがいいよ」

 扉をノックする間際、普段は温和な性格で知られている控えめな顔立ちの男子が、つぶやいた。

「それ、喘息だろ? 今日だけじゃなくて普通の授業でもしょっちゅう発作起こしてるじゃん。俺はよく知らないけど、喘息って深刻なやつって聞いたし、お前の場合はまさか死にはしないだろうけど、やっぱりさ、無理だよ。ハンデを抱えた人が、その、普通の人と一緒に……ていうのは、まだ難しいんだと思う」

 男子生徒は丁寧に、それとなく言葉を濁して言った。左側についているだいぶ背の高い男子のほうも、黙って相方の話を聞いている。そして同意するようにうなずく。

「せめて体育だけでも休んだら?」

 男子生徒は気遣うように声色を変えた。

「……普通学級に、体育は必須科目だろ」

 翠はだいぶ整った息で、言葉尻を強めた。

「でも身体の弱い人は大体が見学しているよ」

「俺はそんなやつらと一緒のカテゴリーに分けられたくない」

 男子生徒はあきれたように溜め息を吐いた。

「お前は普通の人間じゃないじゃん」

 じゃあ、お前たちは? お前たちは何をもって自分たちを普通の人間だと思い込んでいるのか。いつ俺たちが「普通以下」の人間だと区別したんだ。デイケア組のことを知りもしないで、よく面と向かって自分たちは優しい人間ですと言えるな。喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、何かに熱く燃えたぎっている頭と心臓の鼓動を感じながら、翠は保健室の扉を開けた。保険医がすぐに来て「青花君ね。そこに座って」と的確な指示を出した。「保健係さん、いつもありがとう」と若い保険医が笑いかけると、男子生徒二人は照れたように頭を掻いて「じゃあ、またな」と去っていった。大人の前で一瞬まるで友達のように振る舞った二人に軽く殺意を抱きながら、翠は指定された奥のベッドにドサッと倒れ込んだ。「まずは水を飲みなさい、水を」と年配の保険医が小さな冷蔵庫から水を取り出し、コップに注いで翠の前に持ってきてくれた。だるく身体を起こして水を飲み干す。「二時限目はここで休みなさい。私あなたの制服持ってくるから」と年配の保険医がカーテンを閉め、早足に保健室を出た。若いほうの保険医が「今日の昼休みの当番は一組の飯塚さんと的場さんです」と柔らかく告げた。翠は目だけで了承の合図をし、布団をかぶって壁側を向いた。若い保険医が察したように静かにその場を離れ、タイプライターらしきものを打つ音だけが部屋に響いた。今日は舞衣が来る日か。あいつに借りた本、まだ読み終わってないや。うつらうつらとしながら彼女のことを思っていると、年配の保険医が帰ってきた気配がした。保険医はそっとカーテンを開けて、眠りに落ちかけている翠のベッドの端に制服を置くと、自分の持ち場に戻っていった。母親のような深い優しさに包まれているような気がして、家族のことを思い出した。父、母、そして妹。あの三人は自分のいない家でもいつも通りに過ごしているのだろうか。決まった週に必ず三人からの手紙が来るが、翠は両親にしか返事を書かなかった。たった一度、最後の別れのつもりで一冊の愛読書とそれに沿った一行の文章を当てて出したことを除いては。

 妹は、いつになったら自分のことを忘れてくれるのだろう。

 

 十時半頃に起きてカーテンの中で制服に着替え、体操着袋を引っ提げながら休み時間に一度教室に戻った。クラス全員分の視線が一瞬そこに止まり、すぐにもとの友達のところに戻って何でもないように話し出す。この光景もだいぶ慣れた。ロッカーに体操着を戻して次の授業の教科書を出し、机に着いてノートを開くと、デイケア組時代に夏央たちから熱心に聞き取ったメモの殴り書きが残っていた。そっか、このノートにも書いてあったっけ。あちこちの授業ノートにいろいろなことを書いてきたせいで、どのページを切り取ってクリアファイルに入れたのか今ではすっかり忘れてしまっている。大人の男性向けのデザインがされているペンケースからカッターを取り出し、メモの欄を切り取る。多少ガタついてしまったが割ときれいに切り取れると、鞄に毎日入れているクリアファイルに新しい一枚を入れた。大人になればきっと変わるよ。いつか誰かが言っていた。誰の台詞だったのか、もう記憶が定かではない。子どもと言わると腹が立つが、大人と言われても少しむっとする。自分はそんな完璧な存在じゃない。でもポンコツとも言われたくない。結局、自分はどっちに転ぶのだろう。大人か、子どもか。またはそのどれでもないのか。翠はぼやけた気持ちで次の授業の予鈴が鳴るのを聞いていた。

 

 教室に自分の居場所はないので、昼休みになるとさっさと弁当箱を持って保健室へ向かった。舞衣に返すための本も準備して、職員室の対面にある大きな間取りの部屋の扉を開ける。すぐそこに彼女の姿があった。「保険委員」とネームプレートを胸に下げて、二人の保険医と一緒に仕事をしている。もう一人の的場(まとば)という保健委員の女子生徒は、壁の本棚の整理をしている。「舞衣」と声をかけると、飯塚舞衣は翠の差し出した本を受け取って「おもしろかったでしょ?」と得意げに言った。

「実は全部読む時間がなくて、飛ばして読んだ」

「えー、ちゃんと読めよー」

舞衣は唇を尖らせた。

「だって今の俺ほとんど一人暮らしだもん。部屋の掃除も洗濯も自分でしなきゃならないし」

学生寮はコインランドリーとクリーニング屋が備えられているし、食事も三食ちゃんと作ってくれるでしょーが」

「それでも家にいる時と違うんだよ」

 翠が多少むきになると、舞衣は「まあ、学校の課題もあるしね」とあっさり引いた。彼女のいいところは、言葉の駆け引きが上手いところだ。相手の感情を敏感に感じ取り、その場の空気が悪くならないように最善の注意を払う。翠に限らず誰に対しても態度を変えないので、きっと彼女を信頼する仲間は多いのだろう。

 飯塚舞衣は、一つ年上の二年生で、夏央と同じ保健委員だった。週に二日保健室で作業をこなし、夏央と入れ違いにここへ来る。毎日のように保健室で昼休みを過ごす翠は、頻繁に出会う夏央や舞衣などの上級生たちとだいぶ話せるようになっていた。舞衣と同じクラスであり友達の的場という女子生徒も、優しくて気遣い上手な先輩だ。同じ学年のクラスメイトより、余裕のある落ち着いた上級生たちと関わるほうが楽しかった。彼らは一つ学年が違うだけで、見違えるほどに大人な対応をしてくれた。年が一つ上になると、これほどまでに成長するのかと、翠は彼らをまぶしく思った。自分もいつか、こんな風になれるのだろうかと。

 広いテーブル席で食堂の料理担当のものが作ってくれた昼ご飯を食べていると、舞衣がすっと横に座った。

「あまり意気地になりなさんな」

 一時限目の体育の騒動のことを言っているのかとすぐに気がついた。

「お前らみたいな人間にはわかんねーよ」

 ふんと鼻を鳴らすと、舞衣は困ったように笑って「まーた、そういうこと言う」と頬杖をついた。

「あんたは普通扱いしてほしいのか気遣ってほしいのか、どっちなのよ」

「どっちでもねーよ」

「曖昧だなあ」

 舞衣はそう言うと話題に興味を失くしたらしく、再び保険医の机のところに戻った。そして的場と一緒に楽しげな会話をしながらチェックリストらしきものを作成している。翠は無言でご飯を口に入れた。

 舞衣は綺麗な女の子だ。

 芯の強そうな、それでいて愛嬌のある目をしている。今日はストレートに伸ばした長い髪を、仕事のため一つに縛っている。はきはきした物怖じしないしゃべり方で、周りからの信頼も厚い。夏央や冬華とは腐れ縁だと言っていた。この二人と彼女はどこか似ているので、波長が合うのだろう。三人で仲良く廊下でしゃべっていたのを見たことがある。

 入学式の日、翠はデイケア組の名簿を一般クラスのボランティア部に渡す係を自ら志願した。そして一般クラスに接触した。ボランティア部のメンバーに先に会いに行き、できたらあなたたちのところへ行きたいと申し出た。皆は一瞬きょとんとした顔になったが、部長の三年生が「いつでもおいで」と言ってくれたのを合図にそれぞれ優しい言葉をかけてくれた。あの時に思い込んでしまった。普通の人はちゃんとわかっていると。けれど実際移った先に待っていたのは、無知という名の遠慮のない視線だった。

 舞衣とは夏央姉弟を通して知り合った。彼女の分け隔てなく接してくれるやり方に、すぐに翠も心を開いて、気がつくと参考書や本を借り合う良き相談相手になっていた。彼女はボランティア部ではなかったが、しょっちゅう部室に遊びに来ていた。「お前、暇人かよ」と投げかける夏央に「どこの部も入ってないもん」とからかうように返す彼女は、いつでも楽しそうで、親しみ深い雰囲気があった。そしていつも周りに人がいた。取り巻きというほど熱狂的なファンではなくて、友達という言葉がピッタリな関係の仲間が。舞衣は時々友達を連れてきたりもした。その一人が的場である。的場は比較的おとなしい女子で、あまり多くを語らない人だった。舞衣の後ろをついて歩いて、適度に盛り上がった現場を崩さないような引き際を知っている者だった。「そろそろ戻ろうか」と的場が言うと、舞衣も素直に従った。この二人の関係が理想だった。

 ご飯をすべてたいらげて弁当箱をしまうと、チラッと舞衣を見た。的場と何やら話し込んでいる。委員の話だろうか。それとも何気ない会話だろうか。翠はテーブルから二人の姿をじっと見つめていた。

「ん、どうした、翠? 寂しいのか?」

 舞衣が気づいて、椅子の背もたれから振り向いた。

「馬鹿か。俺はちびっ子じゃねえよ」

「でもあんた、『かまってちゃん』でしょ」

「はあ!? ちげーよ! どこがだよ!」

 翠が顔を真っ赤にして怒ると、舞衣が「だって、あんたは何か言いたいことがあると、後ろからじっと見つめるじゃない。熱い視線を」とおもしろそうに言った。

「いつ俺がそんな女々しいことしたよ!?」

「……自覚ないのかよ」

 今度はあきれたように溜め息を吐く舞衣に、ああ、全然勝てない、と翠は思った。いつだって彼女のほうが一枚上手だ。悔しいような心地いいようなぼやけた感覚に揺られる。

「仲いいわねえ、あなたたち」

 年配の保険医がほんわりと言った。もう一人の保険医もニコニコと微笑ましそうに見ている。

「そりゃあ、こいつ、かわいいですからねえ」

 舞衣がしれっと言い放ったので、翠は口にしていた売店の麦茶を吹き出しそうになった。

「ねえ、的場、この子かわいいよね」

「うん。弄りがいがあるわ」

 舞衣と的場がクスクス笑い合って、翠は次に口にする暴言を考えていたが、沸騰した頭は見当はずれの台詞しか出てこなくて、わなわなと震えるばかりだった。スッとした控えめな目もとと奥ゆかしい顔立ちとは裏腹に、的場は少々からかい好きのようだった。

 食べ終えた弁当箱を抱えて、席を立つ。「あ、図書室?」と声をかける舞衣を無視して、保険医二人に頭だけ下げると、翠はバタンと扉を閉めた。

 教室に戻り、他人の笑い声であふれた中にある自分の机に行き、鞄に弁当箱をしまって上の階へ上るため南の階段に向かうと、舞衣が先に待っていた。

「図書室でしょ?」

 舞衣は当然のように翠の行きたい場所を言い当てた。

「……神出鬼没かよ、お前」

「先輩に向かってお前呼ばわりしない!」

 また無視してスタスタと階段を上ると、舞衣はさっと駆け上がって翠の前をずんずん進んだ。相変わらず自分が主導権を握りたがる女の子だ、と翠はあきれ気味に思った。

「図書室が地下じゃなくて上にあるっていいよね。やっぱりお日様の光、浴びたいし」

「ふーん」

「三階なのもポイント高いなあ。上過ぎず下過ぎず。窓見るとちょうど空と地面が絶妙なバランスでさ」

「確かに景色はいい。落ち着く」

 何気なく口にした言葉に「だよね!? この感覚わかってくれる人ほかにいないと思ってた!」と舞衣は異様に喜んだ。「はしゃぎ過ぎだろ」ぴしゃりと言い放っても彼女は「最近、私はファンタジーにはまってるの。あんたはミステリーだったね」と明るく返す。とことん自分のペースに巻き込みたいらしい。翠も観念して彼女に歩幅を合わせた。

 三階に着き、南側の廊下に面している木の色をした大きな扉を開く。日の光が当たって少しだけ明るい色合いに染まったドアノブを下げる。カチャン、と軽やかな音がした。中に入ると昼休み中の図書室はけっこう生徒がいて、周りに注意してささやき合いながら静かに本棚を探す者であふれていた。この部屋は一階の保健室の次に広い大部屋で、蔵書数はちょっとした自慢になるほどアピールできる数だった。

 文庫本のコーナーに寄ると、二人は自然と各々好きに行動し始めた。翠は巨匠と名高いミステリー作家の列へ。舞衣は外国のファンタジー文学のところへ。しばらく本棚を眺め、適当なものを物色し、受付カウンターで図書カードに貸出しのデータを入れてもらうと、空いているテーブルに着いてそれぞれの持ち出した本を見比べた。

アガサ・クリスティーか。王道だね」

「まだ読み始めて間もないから。もう少ししたらマイナーなのも読んでみるつもり」

「ミステリーって、本格派とそうじゃないやつって区別されているけど、あんたはどっち?」

「どっちもいいところがあると思うから、両方だな」

「そうなんだ。私はこれにしたー」

 舞衣の差し出した本は、外国でベストセラーになったシリーズものだった。

「それ、どっちかっていうとSFじゃね?」

「え、マジ? ハイファンタジーかと思ったんだけど」

「俺、SFとハイファンタジーって、あまり区別がつかないんだけど」

「私もー。読書家から見たら私たちって本のミーハーかもね」

 舞衣がおかしそうにクスクス笑う。その横顔を見て、鼻筋のラインがきれいだな、と思う。別のテーブルで勉強している生徒たちがいるので、ひそひそささやくような声で言葉を交わしていたが、知らず盛り上がっていたようで、ちらりと視線を向けられた。あわてて声を落として作家のプロフィール欄のページをめくる。翠も舞衣も、壮大な物語を紡いだ作者の著作歴を見るのが好きだった。どこで生まれたのか、どんな学歴だったのか、どのようにして作家デビューしたのか、それこそ一人の人生の物語を見るみたいで、わくわくした。最初にそのことを舞衣に告げた時も「こんな趣味持ってるの、私しかいないと思ってた」と彼女はパッと花が咲いたように笑った。気がつけば、二人は一緒に図書室へ行く仲になっていた。

「この作家、遅咲きだったんだね。四十代でデビューだって」

 舞衣がこっそりとささやいた。生まれ年とデビューした年を計算していたらしい。

「この人のほうは三十代デビューだな」

 翠も手にした作家のデビュー年を数えた。

 楽しいと思った。彼女といる時間が、いつしか癒しになっていた。自分一人きりで図書室に通って本を物色していたあの時が、まるで遠い過去のように思えた。無理にしっかりしなくてもいいというのは、飾らないでいいということは、翠にとって大きなことだった。

 あら、かわいい子ね。

 初めて会った時、彼女はそこらへんにいる野良猫を見つけたかのような調子で言った。特に何の感慨もなく、けれどお世辞というほどの嫌味でもなく。

 デイケア組?

 彼女が何の気なしに尋ねたので、翠はこくりとうなずいた。ボランティア部に遊びに来ていた彼女とは、その日は二言三言交わしただけで終わった。しばらくしてまた会い、日常会話のような他愛のない話をして、別れ、そして数日後、再び会って少し深い話をして、気がつけば自分の隣に彼女は歩いていた。そして同時に、妹はどこか遠くへ行った。自分が遠ざけた。後悔はなかった。むしろ清々しかった。それなのになぜ、時々胸がつぶされそうに痛むのだろう。

 本を開き、文字を追うことに集中し始めた舞衣を邪魔しないように、自分も読書にふける。お互いがお互いのペースを乱さないこの関係が何よりも心地よかった。

「保険係になんかならなきゃよかったなあ」

 ふいにその言葉だけが翠の耳に大きく響いた。周りを気遣うひそひそささやくような声だったのに、なぜか矢を放つようなスピードで突き刺さった。

「うちのクラスにさあ、移ったやつなんだけど、これが大変で」

 今朝、翠を保健室まで連れて行った彼の声だった。男子にしては少し抑え目な声が、溜め息交じりに吐き出された。

「体育なんかできるわけがないのに、聞かん坊みたいに出まくってさ、それでお約束のように倒れるの。笑っちゃうだろ」

 彼の友達が一笑した。

「女子たちがさあ、もう、かわいそうって感じで、優しくしてて。皆が皆そいつの面倒見てくれてるの。どこの箱入り息子だよ」

 まあ、顔がいいから。女は面食いだしな。まさか一番楽そうだった係がこんなことになるなんて思わなかったよ。二人の男が笑い合っている。翠のすぐ後ろで、翠と同じように本棚を眺めている。そして一冊の本を取り出して、翠のすぐそばを気づかずに通り過ぎていく。一瞬、彼の持っていった本の背表紙が見えた。研究資料のようだった。

「外に出ようか」

 舞衣の声が聞こえた。聞き心地のいい柔らかな甘い声。

「今日、いい天気だし」

 翠が答える間もなく、舞衣は席を立ってスタスタと歩いていった。翠は凍りついて動かなくなっている全身を何とか動かして、強い衝撃を受けたような痛みに揺れている頭を抱えながら、彼女に追いつこうと小走りで図書室を出た。

「あのさ」

 翠は言葉を整理して、一階に下りて中庭へ出た舞衣の背中に声をかけた。

「別に、あの男のこと何とも思ってないから。好きでもないやつに勝手なこと言われてもどうでもいいから」

 舞衣は翠のほうを振り向いて、つぶやいた。

「嘘ばっかり」

 彼女の目は真剣だった。

「他人の言葉が一番怖いくせに」

 翠は、ぐっと黙った。舞衣の甘い声が一段低くなって、重みのあるトーンになった。

「本当は、恋しいんでしょ? あのデイケア組が」

 舞衣は文庫本を抱えて、再び翠に背を向けて日の当たる場所に出た。

「私には虚勢はらないでよ」

「虚勢なんかじゃない」

 意識せずに出た声は、情けないほどかすれていた。

「強くなりたかったんだ。できる人間だって思いたかった」

 俯いて、地面に生えている芝生を見つめる。人工的に植えた草。人の手で作り出された草。

「あそこは、ぬるま湯みたいで、気持ち悪かった。だから出て行きたかった。逃げたいわけじゃなくて、先に進みたかった」

 その進んだ先に何があるのか、考えもしないで。

 翠は顔を上げた。舞衣がこちらを見つめていた。舞衣の茶色い髪が、太陽の光を浴びてふと透けたような色になった。

「変わるよ」

 舞衣の声は力強かった。

「一学年上がれば、きっと皆、大人になる。一つ年を重ねるだけで、こんなに違うんだから。だからこんなことで悲しまないで」

「悲しくなんかない」

 翠は懸命に否定した。こんな些細な悪口でショックを受けている自分が許せなかった。

 舞衣は眉尻を下げて笑った。しょうがないなあ、と翠に近づき、手を取った。

「昼休み終わっちゃうから。今日はここまで。明日また会おうね」

「……うん」

 舞衣は翠の手を強く握った。そして合図をするようにニコッと笑うと、手を離し、中庭からホールに入る中扉を開け、校舎へ戻った。

 五時限目の予鈴が鳴るまで、翠はしばらくそこに佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「妹さんを殺したいと思ったこと、あるんじゃない?」

 舞衣の挑むような瞳が、翠を捉えた。

「いつからだ」

 翠は問い返した。

「いつから気づいた」

 声がかすれていることに自分でもわかった。目の前の少女が得体のしれない女に見えた。

 舞衣が答える。

「文化祭の時。保健室送りになったあんたを迎えに来たあの子を見た時の表情で。派手に暴れていたわね。目つきイッちゃってたわよ」

 翠は目を伏せた。一呼吸おいて、青白い顔をしながらぽつぽつと話し始めた。

「あいの存在は、俺には重すぎた」

 しんと静まり返った空気の流れる中、翠の声が死の翳りのように陰鬱な色を伴って舞衣の耳に届いた。

「小学生の頃、俺たちは周りの子どもについていけなくてしょっちゅう身体を壊しては一緒の部屋で寝かされていた。あいつはそれが嬉しかったらしい。俺のそばにいる時はいつも饒舌になっていた。四年の時だった。あいつが訊いてきた。私のことを好き? 急に白けた気分になった」

「あなたたちに友達はできなかったの?」

 舞衣の素朴な質問に、翠は苦笑した。

「世の中、他人を助けてくれる人間なんてそんなにいるものじゃないんだよ。俺たちは特に人間関係を築くのが下手だったから」

「妹さんは、友達ができないままあなたに寄りかかり始めたのね?」

 舞衣が言葉を選びながら慎重に訊くと、翠の苦笑はさらに歪み始めた。彼の美しい顔立ちが忌まわしい過去のせいで険しい色になっていた。

「俺もまたあいつに依存していた。嫌ならさっさと友達を作って距離を取ればいいのに、それができなかった。俺たちは家でも学校でもくっついていた」

 あの年は厳しい寒さだった。三学期の学校で、真冬の冷たい風を受けながら、妹と久しぶりに出た体育の授業。

 持久走だった。四年生になって初めて受けるもので、二人はとりあえず参加してみた。スタートラインに立ち、走り始めて数分も経たないうちに妹の息が荒くなった。それに合わせるように自分も息が苦しくなった。結局二人は完走できずに途中で倒れて保健室送りになった。

 先生が二人を捜し出してくれて見つかった時、すでに時刻は終了ベルが鳴ったあとだった。クラスの皆は待たされていて、露骨に嫌な顔をしていた。

 保健室に運ばれる時、クラスメイトの声が聞こえた。はっきりと。

「足引っ張るくらいなら死ね」

 翠はその言葉を聞いて確信したのだった。自分たちは社会の足枷なのだと。自分たちこそが社会のゴミなのだと。まともに学校へ行くこともできない。役目を果たすこともできない。与えられた仕事もきちんとこなせない。翠はすべてを理解した。

 いつか死のう。こんな思いをするくらいならこの世から消えたほうがよっぽどましだ。社会のためにもなる。

 妹を巻き込んだのは、一人で死ぬのが心細かったからだ。しょせん自分は一人では生きることも死ぬこともままならないのだ。

 それから彼女はたびたび翠に愛を問うてきた。私のこと好き? 私は一人じゃない? 翠は何も言えず、適当な返事だけをした。妹をこんな風にしたのは、自分だ。

 育ててくれた親に対する罪悪感はあったが、自分が立派な大人になる瞬間はまったくと言っていいほど想像がつかなかった。年を取ってぶくぶくと肥えても、親のすねかじりの身分に甘んじている未来は容易に想像できた。

 自分は、あまりにもポンコツな人間だった。

 それから翠は、なるべく親に迷惑をかけない自殺のやり方を調べ始めた。首を吊るか、腕を切るか、ほかにもいろいろな方法を学んだ。妹にどの死に方が一番いいのか相談したりもした。二人は死の世界に夢を見始めた。

 妹の参考になればと思い、五年生になる時、一人で腕を切った。すぐに発見されて病院に運ばれた。大事には至らないという医師の言葉を聞いて、翠は、死ぬことはそう簡単にできるものではないということがわかった。妹は翠に問いかけた。私のこと好き? ともに死んでくれることを待ち望んでいる目だった。

「……そこから、どうやって一般クラスに編入する決意に至ったの?」

 舞衣は静かに問うた。翠は淡々と返した。こわばっていた表情はいくらか和らいでいた。

「単純に、死にたくなくなったからだよ」

「……気持ちが変わったの?」

「ああ」

 翠は地面の砂を足でいじくりながら、思い返すように言葉を紡いだ。

「親に泣かれたんだ。両方とも泣いていて、すごく叱られた。もう二度とこんなことするなって言いつけられた。その時、俺はわかったんだ。戦うしか道はないって。死を夢見ることは絶望なんだって。俺はまだ絶望しちゃいけない。生きるしかない。この身体で。そう決めた。でも、あいつはまだ夢を見ていた」

「……それから、妹さんを憎むように?」

 舞衣の声がどこか寂しげに聞こえたのは気のせいではないと思った。

「あいつが邪魔だと思うようになった。俺は、あいつの、首を絞める夢さえ見たんだ」

 何も疑わない妹。死の約束のことをいまだに信じている妹。翠の目に暗い光が宿った。

「あいつをあんな風にしたのは俺だ。でも何もしてやれない。あいつを救うのは俺じゃない。俺はこのままだとあいつに喰われる。もう離れなければいけないんだ」

 翠はうずくまった。こんなことを誰かに話すのは今までになかったことだった。

「一体いつになったら楽になれるんだろう。俺はどこへ行けばいい」

 最低な人間だということはわかっている。自分だけ成長して、妹を置いていった。今だってこんなにも震えている。周囲の冷たい態度に、普通の世界へ足を踏み入れたことに後悔している。けれど今さら戻ることはできない。帰る家はない。自ら捨てた。この世の中で本当に一人ぼっちだった。

 人の体温を感じた。舞衣が翠のことをきつく抱きしめていた。翠は腕を回して、舞衣の細い身体を引き寄せ、衝動のままに頬に口づけをした。

「ごめん。無力で」

 舞衣の肩に顔をうずめて、翠は謝った。ずっと誰かに許しをもらいたかった。舞衣は何も言わず、翠の頭を撫でた。そして首筋に柔らかいキスをした。

 くすぐったくて、温かかった。

 胸に何かが迫ってきた。

 俺は生き残れるのか、のたれ死ぬのか。

 未来は俺に対して優しいのか、残酷なのか。

 すべてはいまだ混沌としていて闇の中だった。ただ、舞衣が優しく微笑んでいた。嬉しそうに翠にキスを返し、翠のことを包んでいた。この優しさは、きっと過去にもあったのだろうが、いつしか記憶から抜け落ちていた安心感だった。女とは、安心させてくれる生き物なのだと翠はこの瞬間、わかった。本当に優しいのは、女なのだった。

 母でも妹でも祖母でもない、赤の他人の女。

 込み上げてくるものがあった。翠は上を向き、泣きそうになるのをこらえた。自分の女となった舞衣を抱きしめながら、いつまでも甘く柔らかい沈黙に浸っていたかった。

 天井の壁がもうぼやけて見えない。やっと掴んだ居場所を離さないようにきつく抱き寄せるのが精いっぱいだった。

 夕莉。お前ももう、大丈夫だよ。

 翠は手の甲で涙を拭った。そして、舞衣と手を繋ぎ、薄く汚れた天井のシミを軽くにらんで、その場を去った。

 舞衣の手は小さくて華奢だった。けれど翠の手を握る力は強かった。翠もまた痛いほど握り返し、鎖のように繋がった掌は誰の介入も許さなかった。

 誰も追いかけてこなかった。自分たちに気づかなかった。他人であふれた人ごみの中を、翠と舞衣は歩いていった。驚くほど気持ちがよかった。ここが、故郷だった。

 翠はふいに馬鹿笑いをしたくなった。ちゃんと満たされていたことに気づけなかったあの日々を、生まれて初めて愛しく思った。自分がそう思っていられるのなら、あの子もきっと生き返るだろう。そう信じている。

 気がつくと舞衣も笑っていた。街中のざわめきが心地いいリズムのように身に浸透していった。翠は、確かめるように足を踏みしめて、彼女と一緒に家へと帰っていった。

 

 ただいま。待たせてごめん。

 

    おわり。

 

○エンタメ私小説 第二弾 これにて終了です。自分で勝手に名乗ったシリーズと一人で呟いています(笑)

○みんなに見てもらえたらいいなあ……( *´艸`)。

 

 

『きっと明日はいい天気』 エンタメ私小説 第二弾

 

red-pink16.hatenablog.com

 

   きっと明日はいい天気 *第2話*

 

   二 伊織佳純(いおり かすみ)

 

フルーツバスケット!」と夏央が手を叩いた。とたんに皆はわっと席を立ち、空席の椅子へ向かった。佳純はすばやく席を取り、夕莉を目で追いかけた。彼女はおろおろと戸惑って、ほかの生徒に椅子を取られてしまった。余った生徒は夕莉となった。

「夕莉、またお前かい! どんくせーなあ」

 夏央がからかうように言うと、皆もどっと笑った。夕莉は拗ねたように夏央をにらみながら、それでもどこか楽しそうに問題を考え始めた。夕莉が外れるのはこれで三回目となる。

「じゃあ……。朝ご飯はパン派の人!」

 夕莉が問題を出すと、該当した生徒がわっと動く。すかさず席を取り、今度は外れることから免れた。

 周りの子より頭一つ分小さい男子生徒があぶれる。そこで時間が来て、先生の「今日はここでお開き~」と軽やかな声を合図に皆はがやがや話しながら椅子を片付けて机を戻した。

 もうすっかりボランティア部はデイケア組に溶け込んでいた。夏央と冬華は周りから人気があるらしく、二人のそばにはいつも誰かしらくっついていた。

 夏休み明けからしばらく経った、九月の終わり。残暑がようやく和らいできた季節。翠がデイケア組から一般クラスへ編入したことを除けば、いつもと変わりない平穏な毎日だった。

 帰り支度をして夕莉と一緒に教室を出ると、冬華から声をかけられた。

「お二人さん、文化祭って出る?」

 佳純は夕莉と目を合わせ、考え込んだ。身長が低い二人はすらりと背の高い冬華の切れ味鋭い美貌を見上げ、声を合わせた。

「夏央先輩と冬華先輩が一緒に回ってくれるなら」

 すると冬華の切れ長の目に、困ったような表情が浮かんだ。都合でも悪いのだろうか、と佳純は思った。

「実はそれ、ほかの子にも言われているのよねえ」

 冬華は苦笑いを浮かべながら頭を抱えた。「うーん……」と唸ってブツブツと何事かつぶやいている。

 十月に行われる文化祭の下準備期間へ入った時期である。デイケア組は参加自由という形式を取っており、実際にはほとんどの人が自宅休みを取っている。冬華たちは何とかしてデイケア組の生徒を文化祭に参加させたいようだった。

「一度も文化祭を知らずに学校卒業するなんて、寂しすぎるでしょ?」

 冬華はさっぱりと言った。「何とか勇気出して来られない?」と誘う彼女に、佳純は一つの提案をした。

「一日中遊ぶのは無理ですが、午前か午後、または後夜祭だけなら」

 了承の意を示した佳純に、夕莉がチラッと不安そうな目を向ける。佳純は彼女に視線を合わせ、大丈夫だよ、とサインを送った。

「ふむ、時間を区切るわけか。後夜祭は友達との付き合いもあるしなあ……。午前か午後にどう?」

 冬華がキリッとした笑顔で提案した。今度は佳純が夕莉のほうを見た。夕莉はまだ不安げな顔をしていたが、ボソッと「佳純が行くなら……」と茶色がかった瞳を伏せて言った。

「詳しいことはまたあとで連絡するよ。文化祭は出るって方向でいい?」

「はい。待っています」

 佳純の返事に冬華は嬉しそうな表情を浮かべ、二人を通り抜けて先に渡り廊下を渡って部室に帰った。佳純と夕莉も下駄箱へ向かい、帰り道を歩いた。

 日差しを肌に浴びながら、秋の匂いを纏った風を頬に受けて、佳純はつぶやいた。

「文化祭、私たち初めてだね」

「……うん」

 夕莉のか弱い声が聞こえた。それでもその声はあの時の消えそうな声ではなく、いくらか芯の通ったものだった。

「きっと楽しいよ。生徒が主役のお祭りだって言っていたから」

「佳純は、小学校の文化祭には出たことあるの?」

 夕莉の問いに、佳純は「うん」と答えた。

「でも、小学校のやつって本格的な遊びじゃないから、盛り上がりは段違いだよ」

「そんなにすごいのか……」

 夕莉は少し興味を持ったように顔を上げた。

「夏央先輩たちと周れるようにしたいね」

「でも、二人とも人気者だからなあ」

 佳純の言葉に夕莉はまだ不安げな声を出す。それでも彼女が少しずつ前を向き始めていることに、佳純はほっとしていた。

 この儚い少女を守るのは、自分の使命だ。

 佳純は戒めにも似た誓いを、胸に秘めていた。

 

 バス停のところで夕莉と別れて、七つ目の停車場所で降りる。新築マンションや立派な一軒家が立ち並ぶ住宅街の、小さな坂になっているその道を歩いた先に、佳純の家はある。正確には佳純が新しく住み始めた家がある。

「ただいまー」

 居間のほうに顔を出すと、親代わりの五十代半ばの女性―聡子(さとこ)がソファーで洗濯物を畳んでいた。

「あら、お帰りなさい」

 聡子は佳純を見ると微笑み、冷蔵庫のほうを指差した。「アイス入ってるわよ。まだ暑いから」聡子の優しい声に「ありがとう。あとで食べるね」と返し、佳純は二階の自室へ行った。あの時の自分の家とは比べものにならないくらい広々とした部屋もようやく目に慣れてきたところだった。聡子が掃除してくれたらしい。床が綺麗になっていた。

「何でもしてくれるなあ。聡子さんは」

 佳純はボソッとつぶやくと、苦笑いを浮かべた。制服を脱いでハンガーにかける。部屋着に着替え、また一階へ降り冷蔵庫からアイスを取り出して食べた。バニラの味がじんわりと口の中に沁み出して、自然と笑みがこぼれた。

 佳純はアイスが好きだった。冬でも構わずアイスを食べた。しっとりとした口どけと甘い味が何ものにも代えがたい幸福だった。ほかに楽しむものがなかったというのもある。おもちゃやぬいぐるみなどは買ってもらえなかった。「金がないから駄目」という親の決まり文句に、いつしか佳純も兄たちもあきらめがついていた。

 今のこの家庭では、聡子が自分の欲しいものを買ってくれる。誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントだってくれる。ケーキもちゃんとした店のものを用意してくれる。佳純は聡子に感謝してもしきれないほどの情を感じていた。

「今日の夕飯はロールキャベツね」

「え、またあ? 私あれあんまり好きじゃない」

「好き嫌いしないの」

 聡子が注意するが、彼女は本当に怒っているわけではない。むしろ佳純が一人前の口を利けるようになったことにほっとしている気配さえする。この家に来たばかりの佳純はとても手におえるものではないほど殺気立っていった。それから比べれば、今の佳純は落ち着いている。きちんと聡子たちになつき、本当の子どもらしく振る舞っている。居間では二人の会話が楽しげに交わされていた。

 夕飯時、聡子の夫―稔(みのる)が帰って来て、三人はテレビを観ながら食事をした。

「青花さん兄妹は、どう? 元気にしてる?」

 聡子から訊かれて、佳純は夕莉の気の弱そうな丸い目の奥の弱弱しい瞳を思い浮かべた。あの子はまだ自分の足で立てていないきらいがあるが、前に進もうという決意はある。それとなく言葉を濁して「だいぶ元気になったかな」と曖昧に笑った。

 本当は、兄の翠は夕莉の家から出て行って、学校の寮に入ってしまった。夕莉と翠は今ではもう何の接点もない。彼は何の説明もなく、誰にも相談することなく、家族から離れてしまったのだった。

 聡子と稔には「双子の友達が大きな喧嘩をしてしまった」ということしか話していない。何となくあの二人のことを詳しく説明するのは気が進まなかった。

「双子って、すごく仲が良いのとめちゃくちゃ仲が悪いのとに分かれるよね」

 佳純が何気なくそうつぶやくと、稔がテレビを見つめながらぼんやりと言った。

「あまりに近すぎるから、客観的に見られないのだろう」

 佳純はふいに家族のことを思い出した。

「うちのお兄ちゃんたちも、お父さんも、客観的に見ることができなかったってことなのかなあ」

 聡子と稔が気まずい表情になり、その場に糸がピンと張ったような緊張が走った。佳純はあわてて「まあ、私にはこの家があるからいいか」と声のトーンを上げた。聡子たちが目配せして、さっと優しい人間の顔をする。「私たちは、もう新しい家族だよ。お前の過去も、病気のことも、全部委ねていいんだよ。安心しなさい」と稔が言って、聡子がうなずいた。佳純の心にスッと白けたような冷めた気持ちがよぎったが、ばれないようにいい子のふりをして「ありがとう」と礼を述べた。

 白いご飯がだいぶ冷めていた。

 

 この家に来た時のことは、よく覚えている。毎晩、悪夢を見続けたからだ。家族と完全に離別して、家にいることが難しくなった子どもを一時的に保護する施設に預けられ、聡子たちと出会った日、恐ろしい夢を見るようになった。窓から突き落とされる夢。それはマンションの屋上だったり、高層ビルの最上階からだったりと形を変えたが、いずれも地に落ちる時の胃がふわりと浮きあがるような感覚がやけにリアルで、うなされて叫んだ。寝汗をびっしょりとかき、七畳の部屋で一人泣いた。すると聡子たちが必ずやって来て佳純の身体を抱きしめてくれるのだった。毎晩そうやって慰められるうちに、次第に佳純は心を開き始め、聡子たちのことを親だと思うことを決めた。あの家は、多分、間違って生まれたのだろうと思った。自分の本当の家はここなのだと決めつけたかった。けれど心のどこかで、なぜこんなことになったのか、家族はなぜバラバラになったのかという気持ちが湧き上がり、その負の感情に苛まれては悪夢を見た。ようやくぐっすりと眠れるようになったのは、行きつけの心療内科の医師に「あなたは運がなかっただけ」と言葉をかけられた時からだ。それ以来、不思議と悪夢は見なくなった。落ち着きを見せ始めた佳純に聡子たちはほっとしたように愛情を注いだ。ただ悪夢を見なくなった代わりに、明け方頃に目が覚めてしまう癖がついた。そんな時は自室のカーテンを開けて夜明けの空と街並みを眺めた。青々とした色合いと静まり返った空気が気持ちよかった。

 佳純は現在、少し特徴のある子を集めた特別学級のある中学校の面接を受け、そこに通っている。学校には遠くから来た生徒たちのための学生寮があり、そこも一般とデイケア組に分かれている。学校帰りには月に二回の診察を受けている。明日はその診察日だ。

 寝る時間が来てベッドにもぐりながら、佳純は双子のことを思っていた。

 夕莉。

 私と似ている子。放っておけない子。

 翠。

 とてもかっこいい人。美しい人。

 私の初恋。

 

 病院の待合室は今日も混雑していた。学校は外来日で休みとなっている。まだ朝の九時台なのに、この心療内科は人気があるのかいつ何時でも人が途切れたことがなかった。

 佳純は空いた席に腰を下ろして、文庫本を広げた。読むのはたいてい「さらりと読める軽い話」である。佳純にとって「心に突き刺すような」重いメッセージ性のこもった物語は、余計に精神を悪化させるものだった。ティーンズ向けの文庫や少女小説などはまさに流し読みするのにもってこいの話なので、一番多く手に取っていた。

 ヒロインがついに相手役の男の子とキスをできそうな雰囲気まで読み進んだところで、名前を呼ばれた。これは王道のラブストーリーなのできっとヒロインは上手く行くのだろうなと思いながら、佳純は本を閉じて診察室に入った。

 担当医と挨拶を交わして、近況報告をした。

「友達ができたんですね。それはよかった」

 三十代後半くらいの男性医師は、あの時「あなたは運がなかっただけですよ」と言ってくれた恩人だった。左手の薬指にはめられた結婚指輪がきらりと存在感を放っていた。

「あのあと、悪夢は見ていないですか?」

 担当医はパソコンに佳純の現在の症状を打ち込んで、確認するように訊いた。

「悪夢は見なくなりました。ただ、明け方に起きる癖がついてしまって」

 初めの頃は自分のどんなことを話したらいいのか戸惑って途切れ途切れになっていたが、今ではすっかり言葉が口からすらすら出てくる。

「四時近くに起きてしまって、そのあと寝ようとするんですけど、眠れなくて。結局朝七時までぼうっとしています」

「夜は何時に寝ていますか?」

「十一時前には」

 担当医は「ふむ」とつぶやいてカタカタとキーボードを打ち込む。

「伊織さんの年齢は一番眠い時期ですから、確かにちょっと睡眠が足りていないかもしれませんね。授業中に眠くなったりもしないですか?」

「はい。元気です」

「家に帰って昼寝することは?」

「それもないですね」

 キーボードがまたカタカタと打ち込まれた。

「聡子さんと稔さんは優しいですか?」

 ふいに話題が今の養い主に移った。佳純は一呼吸おいて、はっきりと口にした。

「二人とも優しいです。特に問題ありません」

 嘘はついていない。聡子と稔は家族と離別した佳純をここまで育ててくれた。二人はいつだって温かかった。

 十五分ほどの診察を終えて、佳純は病院を出た。担当医は人気の医師なので一人に対しての診察時間はどうしても短くなる。あの穏やかな人柄が見る者を安心させるのだろう。ここの大病院は有名だ。会計待ちも近くの薬局も混んでいる。最初の頃は辟易したがいくらか慣れた今では、こうして文庫本を読みながら待つこともできるようになった。

 ようやく会計が終わり、薬局で薬をもらうと、駅まで歩いた。十月に入る空は秋雨前線の影響で灰色に濁っていた。傘をカツ、カツと地面に鳴らしながら向かい、駅構内の大型書店に寄った。

 積み上げられている書籍や雑誌などを眺めるのは楽しい。今の話題や流行はこれなのか、とすぐにわかるからだ。世間が何に興味があるのか、佳純は知ることが楽しかった。

 話題になっている少女漫画の最新刊を一冊買い、電車に乗った。停車駅で降りて次はバス停に向かう。バスを待っている間、雨が降り始めた。一応屋根はついているのでなるべく身を縮ませて雨から避ける。やがてザアザアと本格的な降り出しになった頃、バスが遅れてやって来た。「お急ぎのところ大変ご迷惑おかけ致します。ただいま十分ほどの遅れでございます」と運転手のアナウンスのもと車内に入り、奥の二人掛けの座席に着いた。雨が窓に貼りつく様子を見て、佳純は、こんな時も雨が降っていたなと遠い日のことを思った。もう記憶から捨てたはずの、捨てたいと願っているはずの過去が、ぼやけた輪郭を持って佳純の頭の奥に鈍い痛みを与えた。

 

 長男の兄とは十二歳の差があった。そのせいか長兄のことはほとんど親のように思っていた。長兄は次兄とともにいなくなってしまった母の代わりの家事や役目を全うしていた。この二人の兄は佳純にとって母親のようなものだった。

 三兄と四兄とはほとんど話していない。この二人は反抗期が激しく、夜遊びに没頭してしょっちゅう家を空けていた。

 五兄とは年が近かった。四つの差があったが彼は親しみある雰囲気で、佳純とよく遊んでくれた。この家にとって、または父にとって、佳純はようやくできた一人娘だった。

 父にはよくかわいがられた。兄たちのことを鬼のような形相で怒鳴りつける父も、佳純と接する時は表情を崩してでれっとした顔になった。父の大きな手のひらで頭を撫でられる時は、上手く力加減ができていないため少し痛かった。父は体格もよく、母とともに田舎の大きな日本家屋で、五人の息子と一人の娘を育て上げた。

 佳純の故郷は日本の中でも特に田舎の地方の村だった。そこで子どもを六人も持つ家は珍しかったので、伊織家はよく目立っていた。両親は明るくて社交的な面があったため、あの時の佳純の世界はまだ平和だった。

 母が亡くなり、父が男手ひとつで六人の子どもを育てなくてはならなくなった日まで。

 

 ぼんやりと雨の降る外の景色を見ているうちに、バスは住宅街に入っていた。はっと気づいてあわてて停車ボタンを押し、バスもはっと気づいたように止まると、佳純は腰を上げて座席から立ち上がり、バスを降りた。ザアザア降りだった雨は少し勢いが弱まっていた。

 傘を差して住宅街を歩く。東京のこの家に引き取られてからまず驚いたのは、家の小ささと密集具合だった。今のこの家は東京の中では充分大きな部類に入るが、佳純の昔の家はその倍以上はあった。そして空気の淀みにも驚愕した。アリの大群のようにひしめく東京の人々は、この狭苦しい環境に気でも狂わないのだろうか。ここは郊外なのでいくらか静かだが、都心部など佳純にはとうてい行けるはずもない。夕莉と翠はおそらく東京出身だろう。どこか孤高な感じがするのは東京人の特徴だ。佳純は、まだ自分の出身を話せていなかった。本当は、話すつもりもないのだが。

 家の中に入り、聡子から診察代をもらうと、またアイスを食べた。子どもが六人もいた佳純の家は、誰一人として誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントをもらったことがなかった。六人分の出費は痛いからだろうと今なら納得がいくが、あの頃はアイスを食べることが唯一の娯楽だった。

 夕飯は、佳純の好きな生姜焼きだった。

 

 文化祭の日が近づいていた。一般クラスの校舎が華やかに飾り付けられるのを、佳純は帰り道のたびにぼうっと眺めていた。デイケア組のほうはいつもと変わらぬ毎日である。ただ夏央と冬華があまり顔を出せなくなっていた。祭りの一週間前になるとボランティア部は準備期間のため部活動休止となった。夏央たちのいない午後の活動に、クラスはつまらなそうな空気になっていた。

 帰りの時刻が来て、校門をくぐろうとするとそこには色とりどりの装飾がされてあった。ふと本校舎のほうを見上げると、学年ごとの垂れ幕が存在感を露わにしていた。その見事な仕上がりに佳純と夕莉は圧巻した。

「わあ、すごく盛り上がりそう」

「本当に小学校と違うんだな……」

 夕莉が呆けたようにつぶやくと、佳純はおかしくなって彼女の腕を組んだ。

「夏央先輩たちからまだ連絡ないね。忙しいのかな」

 佳純がそう言うと、夕莉はチラッと視線をやった。

「文化祭、先輩たちと周れなくても、一緒に出ようか」

 夕莉がそう発言したことに、佳純は少なからず驚いた。引っ込み思案な彼女の性格を察するに、夏央たちがそばにいてやれないのなら欠席すると思い込んでいたからだ。

「夕莉がいいなら、いつでも付き合うよ。二日とも出るつもりなの?」

「うん。もしかしたらお兄ちゃんに会えるかもしれないから」

 久しぶりに出てきた翠の名に、佳純は少しドキリとした。今や接点は何一つないのだが、彼の低くて色っぽい声や整ったクールな顔立ち、そっけない態度など、何一つ忘れたことなどなかった。それは夕莉も同じだろう。

「……翠君のクラス、わかる?」

「二組。先生から聞いた」

 夕莉はぐっと悲しげな表情を浮かべると、帰り道を歩きながら佳純に兄のことを話した。

「お兄ちゃん、一般クラスに移ったけど、やっぱり体力的に皆についていくのが大変みたいなの。体育の授業で何度も発作起こしたり、ほかにもいろいろ……。体育なんて見学すればいいのに」

「きっと、一度休んだらその分ハンデだと思われるから、嫌なんじゃないかな。皆と対等でいたいんだと思う」

「それはわかるけど……」

 夕莉は口ごもると、おもむろに頭を抱えた。苦しそうな息を吐き、側頭部に手をやりながら歩いていた足を止めた。

「頭痛? どっかで休もうか」

 佳純が背中を撫でると、夕莉のか細い声が聞こえた。

「大丈夫……。すぐに治るから……」

 実際、立ち止まっていた時間はそれほど長くなかった。夕莉は「いたた……」と呻きながらも再び歩き出した。そして言った。

「お兄ちゃんのこと考えると、頭痛がひどくなって……。もう考えないようにしているんだけど……」

 夕莉の悔しそうな声を聞きながら、佳純はあの日、入学式の時に出会ったこの双子の兄妹のことを思い出していた。

 出席番号順に座らされた講堂の座席。自分の前に、寄り添い合うように二人が座った。席に着く直前、兄のほうが一度だけ後ろを振り返ってデイケア組の面子を見た。

 その美貌に、釘付けになった。

 すぐに妹も兄のほうを向いた。妹もまた可愛らしい顔立ちをしていて、儚い美貌が目に眩しかった。兄は対照的に、耽美的な美しさを秘めた冷たい瞳で、つまらなそうに佳純たちを一瞥した。その排他的な雰囲気に、佳純の心は持っていかれた。

 自分の固い髪質とコンプレックスのそばかすが、これほどまでに恨めしいと思ったことはなかった。

 だから、勇気を出して声をかけた。ただ仲良くなりたいとひたすらに願っていた。卑しい気持ちも確かにあった。けれどそれ以上に、この人たちとちゃんと釣り合う関係になりたかった。

 兄が離れていったのは、もしかしたら自分のせいじゃないかと思い出すと止まらなかった。夕莉に申し訳なくて、二人とも兄の話題を軽妙に避けていた。

 夕莉が兄のことを話し出したのは、今日が初めてである。彼女が兄に突き放されて大泣きしたあの時から、夕莉はずっと家族のことについて黙っていた。兄が寮生活をしていることを知ったのも、先生づてに聞いたからだった。

 ゆっくりと帰路を歩きながら、二人はそれぞれの過去について沈黙を貫いていた。

 

 冬華からメールが来たのは、文化祭が三日後に迫った慌ただしい時間だった。

 自分たちを最優先してくれるらしい。夏央とも話がついて、一日目の午後と後夜祭の時間帯、一緒にいてくれるということだった。

 すぐに夕莉に連絡をして、返信メールを打った。夕莉のほうにもメールが行っていたらしく、二人で喜んだ。

 学校から帰って家でくつろいでいた時に急な嬉しい知らせが届いたので、佳純は夕莉と長電話をした。

「嬉しい。夏央先輩たち、忙しいのに」

 夕莉は心底嬉しそうに弾んだ声で言った。佳純も「楽しくなりそうだね」と笑った。

「先輩たちと一緒なら、お兄ちゃんのクラスの出し物に寄っても嫌な顔されないかなあ」

「大丈夫だよ。翠君ががんばっている姿見たら、いい刺激受けると思うよ」

 佳純が興奮して言うと、夕莉も「だといいなあ」と可愛らしい声を出した。

「ねえ、佳純」

 夕莉が改まった声色をした。

「ん?」

「どうして、お兄ちゃんは私から離れていったのかなあ」

 その声には、悲しみや恨みといった負の感情は感じられなかった。純粋な疑問を問うている声だった。佳純はどう返したらいいのかわからず黙っていると、夕莉は訥々と語り出した。

「小学校を卒業したら一緒に死ぬっていう約束、けっこう本気で信じていたんだけどなあ。あ、今はそんなこと一ミリも思ってないよ?」

「うん」

「ただあの時は、他人はすべて敵だったからさ。味方のいない世界がすごくつらくて、それで死の世界に憧れていたんだけどね」

「うん」

「お兄ちゃんは、多分、とっくに気がついていたんだよね。戦うしか道はないって」

 今日の夕莉はいろいろと話したい気分らしい。佳純は友達の昔話を真剣に聞きながら、また翠に会える日は来るのだろうかと考えていた。

「夕莉、きっとお兄さんと話せる時が来るよ」

「……そう?」

「うん。大丈夫」

「佳純って、大丈夫っていうの、好きだよね。口癖なの?」

 夕莉はおかしそうに尋ねた。

「そんなに口にしてた?」

「うん。だいぶ言ってるよ」

「じゃあ、好きなのかも」

 確かに『大丈夫』という言葉は素敵だ。悪夢に怯えていた頃、よく聡子たちから「大丈夫」と聞かされていた。その時の名残がまだあるのかもしれない。

「待ち合わせ場所はどこだっけ?」

「渡り廊下のところ。デイケア組の教室は閉鎖されちゃうから」

 夕莉の質問に佳純は答えた。時計を見ると、寝る時間はとうに過ぎていた。

「もうこんな時間だ。またね」

 電話を切ろうとすると、夕莉があわてたように「もう一つだけ訊きたいんだけど」と言った。

「何?」

「飯塚舞衣っていう上級生、覚えてる?」

「……ええと、誰だっけ」

 佳純が記憶を探っていると、夕莉の不安そうな声がした。

「二年って自分で言っていたから、先輩なんだろうけど。でもボランティア部じゃなさそうだし。お兄ちゃんと参考書借り合っていた仲だから、繋がりはあるんだろうけど」

「その飯塚舞衣さんがどうしたの?」

 すると夕莉は押し黙ってしまった。しばらくして、

「……ごめん、やっぱり何でもない。夜遅くまでごめんね」

と返事がしたので、佳純もそれ以上は何も言わず、「おやすみ。また明日」と告げると互いに電話を切った。

 アイフォンを充電器に入れて部屋の電気を消したところで、佳純ははたと気づいた。

 翠が最後に妹のそばにいた日、彼女がやって来た。夕莉と翠が教室で言い合いをしていた原因。

 翠は、彼女のところに行ったのか。

 合点がいくと今度は目が冴えてしまい、なかなか寝付けなかった。

 

『佳純へ。

 元気ですか? 俺はとりあえず元気です。新しい家は慣れましたか? 俺たちはもう独立して一人暮らしを満喫しているけど、未成年のお前たちのことが心配です。学校に友達はいますか? 俺は就職したての頃、右も左もわからないことだらけでつらかったけど今ではすっかり会社にも慣れて上司のゴマをすっている毎日です。弟たちから連絡は来ましたか? 来ていなかったらあとで厳しく言っとくから。最近涼しくなりましたが……』

 長兄からの手紙を隅々まで読んで、あの優しかった兄の面影を思い出そうとした。長兄と次兄は母親代わりの存在だったので、今どうしているのだろうと一番気になっていた。この二人は就職して独立し、たびたび佳純に近況報告の手紙をくれるのだった。今年は五兄からも来た。三兄と四兄も就職したと手紙に書いてあったが、二人からの連絡は途絶えていた。五兄は高校卒業のための単位を取るため二年のうちからがんばっていると手紙が来た。彼は佳純と同じく一時的に施設に入れられて、そしてそのまま某大型施設に移動された。佳純と兄たちの情報をすべて把握しているのは、長兄と次兄のみだった。

 手紙をファイルにしまい込んで棚に戻し、学生鞄を下げて、初日を迎えた文化祭へ向かった。

 

 待ち合わせ場所には、すでに夕莉がいた。

 茶色いセミロングの髪を今日は結い上げていて、可愛らしいバレッタで止めていた。おめかししてきたな、と佳純はからかいたくなった。自分もサイドアップに結んでいるので、女心はいつどこでも通じ合っているものらしい。夕莉と落ち合うと互いに褒めあい合戦をした。

 学校にはたくさんの客が訪れていた。受付で渡されたパンフレットを持って、大人と子どもが混ざりながらひしめき合っていた。

「人ごみ、平気?」

 佳純が確認するように尋ねると、夕莉は毅然と答えた。

「本当は苦手なんだけど、今日はがんばる。先輩たちと遊びたいもん」

 だいぶ強がっているようにも見えたが、彼女がこの祭りに懸けている思いを察すれば、余計な言葉はいらなかった。

 少しして夏央が冬華を連れてホールを抜けるのが見えた。二人で大きく手を振ると、夏央と冬華はすぐに気づいてくれて手を振り返しながら渡り廊下に入った。

「待ったか?」

 四人合流すると夏央が二人を気遣った。

「いいえ、そんなには」

 佳純と夕莉が声を合わせて言い、彼が自分のお洒落に気づいてくれるだろうかと期待を込めたが、当の夏央は「すげえ人だろ。まずは飲み物買おう」とさっさと歩き始めてしまった。「男の人は鈍感だね」と佳純が夕莉に耳打ちすると、夕莉もまた「先輩らしいけどね」と笑った。

 夏央は夕莉に、冬華は佳純にそれぞれ飲み物を買ってくれた。「今日のお前らは楽しむ側だから」という夏央の言葉に甘えて、二人はのどを潤した。

 彼らの学年が催しているクラスの出し物に寄ってみた。夏央の組は縁日を、冬華のほうはアトラクションゲームをやっていた。縁日では夕莉が輪投げで景品を取ることに成功し、佳純は的当てボールで真ん中を当てた。二つの景品を嬉しそうに胸に抱いた二人を見て、夏央たちは「センスあるなあ」と感心していた。

 冬華の組のアトラクションは人生ゲームだった。升目に沿って「イエス」か「ノー」かで答え、矢印の方向へ進み、各自用意されているゴールへ向かう遊びだった。佳純の人生は仕事で成功を収めるタイプのゴールで、夕莉の人生は愛する人とともに暮らして子沢山の人生を送るというゴールだった。二人はおかしくなって互いに笑い合った。

 楽しかった。文化祭の充実感は兄たちの様子を見て知っていたが、ここまで生徒が主役で盛り上がる行事を経験したのは初めてだった。

 二人の学年の出し物を参加し終えて、夏央と冬華が次はどこを見て回るか打ち合わせを始めた。

「お二人とも、仲いいですね」

 ふいに夕莉が口を開いた。二人はきょとんとした顔をした。

「何でボランティア部に入ろうとしたんですか?」

 夕莉は純粋に疑問を口にしていた。佳純も二人の答えを聞きたくて目を向けた。

「んー、ここじゃ何だからちょっと場所変えようか。そんなに大した理由じゃないんだけどね」

 冬華が夏央に合図をして二人はスタスタと歩いていった。佳純と夕莉もついていく。二人の間にそれほど深い沈黙はなかった。適当に入っただけなのかもしれない。しかし二人の優しさは中途半端な気持ちでできるものではないと佳純も夕莉もわかっていた。

 一階のホールに出た。窓辺に沿う形で並んでいる長椅子に佳純たちは座り、たくさんの人で行きかっている駅の入り口のようなホール前を眺めた。二人は夏央たちの言葉を待っていた。

「俺たち、小学校時代は学級委員だったんだ」

「高学年になった時からずっとね」

 夏央と冬華が順に告げた。

「面倒見いいですからね」

 佳純がそう言うと、夕莉も続けてうなずいた。

「それでまあ、ずっと委員長ってポジションだったんだけどさ、どこのクラスにも必ず一人は身体弱いやつがいるわけ。その中でも特に病弱な男子がいたんだ。そいつはちょっと荒んでいて、危なっかしい雰囲気で、世話好きな俺たちは見事にそいつにかかりっきりになっちゃったわけよ」

 夏央が少しおどけたように笑うと、冬華が続きを話した。

「彼は最初、私たちのことをうっとうしがっていた。あまり口もききたがらなかったし。てっきり嫌われているんだと思っていた。どうにも放っておけなくてしょっちゅう絡んでいたから」

 冬華が昔を懐かしむように目を伏せた。

「最高学年になった時だった。彼が東京から地方の実家へ帰る時が来たの。もっと空気が綺麗なところで過ごさせたいという両親の考えで。別れの日、彼が私たちにだけ手紙をくれたの。教室で簡単な挨拶を済ませた後の、帰り道だった」

 冬華の顔がぽっと上気していた。彼女は、その男の子のことが好きだったのだと佳純たちは気がついた。

「彼が泣きながら手紙を渡したの。そして、今までありがとう、という言葉だけを告げて、走って帰っちゃった。私たちは二人そろってその場で手紙を開けた。便箋にびっしりとお礼と感謝の言葉が書かれていた。胸が熱くなった。その時思ったの。もっともっとたくさんの人たちの力になりたいって。困っている人を助けたいって。同情じゃなくて、偽善じゃなくて、力になりたかったの」

 冬華が話し終えると、夏央が「あいつ今どうしているかな」とぼんやりとした顔で言った。

「彼とは連絡が途絶えちゃったけど、今でも忘れてない。私は決心して、そういう人たちの助けとなる仕事に就きたいと思うようになったの。それでここの学校を見つけ出した。夏央も巻き込んで、このボランティア部に入ったの」

 冬華はそこまで言うと、口調を変えて話した過去の思い出から帰ってきたかのように、カラッと笑っていつもの話し方に戻った。

「だから、あんたたちも大丈夫よ! 私たちがついているから」

 夕莉がもじもじとしていた。何か訊きたいことがあるのかと彼女の肩をつつくと、夕莉は思いきったように尋ねた。

「あの、初めて私たちのクラスに来た時、兄と何を話していたんですか? 知り合いだったんですか?」

 おそらくこの質問をずっとしたかったのだろう、夕莉の切羽詰まった表情が横顔からわかった。佳純は隣で二人の反応を待った。

「ええとね……」

 冬華がそこでどもった。チラッと夏央の顔を見て、二人は言葉を濁しながら話した。

「入学式の時に私たちボランティア部は、一回集まってデイケア組の名簿を渡されるのよ。それであらかじめ顔と名前を覚えて、初対面する時にこっちから話しかけやすいようにいろいろと下準備するわけ。そこへあなたのお兄さんが来て、顧問の先生を通して先に自己紹介してもらったの。多分、お兄さんは最初から先生に話をつけていて、あなたの知らないところで動いていたんだと思うな。どうして隠していたのかは知らないけど」

「翠は、一般クラスに移るために必死だったよ。俺たちと同じように勉強して、運動して、同じ目線に立ちたいって真剣に話していた。その熱意は買ってやってもいいんじゃないか? 隠し事していたのは悪いかもしれないけどさ」

 夕莉はじっと二人の話に聞き入っていた。気の弱そうな丸い目は、強い光を伴ってしっかりと開いているのだろうとわかった。夕莉はうつむいて、手の指をいじり始めた。彼女は悩むと指をいじる癖がある。佳純は夕莉が何をしたいのかを察した。

「じゃあ、翠君のクラスの出し物に寄ってみませんか?」

 夕莉が思い出したようにはっと息を飲んだ。佳純はポンと彼女の肩に手をやって「皆なら、翠君も懐かしがってくれると思うよ」と諭すように言った。

「そうだな。じゃあ、行ってみるか」

 夏央がさっと席を立った。

「考えてみれば、あの子ずっと一人で戦っているしね。どうしていきなり夕莉と離れたのか、今なら訊けるかもしれないし」

 冬華も立ち上がってにっこりと佳純たちに微笑んだ。

「翠君のクラス知ってる?」

「多分、二組。先生から聞いた」

 佳純の問いに夕莉は自信なげに答えた。

「あいつ、本当に何も言ってないんだな。しょうがねえなあ」

 夏央があきれたように溜め息を一つ吐いた。

「一年生はほとんど展示会だから、翠君がクラスにいるかどうかはわからないわね。友達と遊んじゃっているかも」

 冬華が持っていたパンフレットを取って、推測するように告げた。佳純は夕莉の背中をそっと押して促した。夕莉が覚悟を決めたように歩き出すと、ほかの三人もついていった。翠に会うことに、佳純の心も高鳴っていた。夕莉の幸せを願っている自分も嘘ではないと言い切れるが、翠に恋心を抱いていることも否定できなかった。結局何一つ行動に移せなかったけれど、会えるかもしれないという期待だけでよかった。

 廊下を抜けて校舎の南側に着き、グラウンドを見渡せる一、二、三組の教室に向かった。二組はちょうど真ん中にある。夕莉の視線が落ち着かない様子できょろきょろとしている。佳純も心臓の鼓動が速くなって、二人は自然と手を握った。夏央と冬華の後ろをついて歩くように、互いの足取りは頼りなげにふらついていた。

 受付係の一年生が二人、クラスの前にいた。机について「どうぞ寄ってくださーい」と明るく宣伝している。夏央たち上級生が近づくと、一年生たちはちょっと緊張気味になって姿勢を正した。

「急に悪いんだけど、青花翠ってこのクラスだよな?」

 一年生は顔を見合わせて「はい。一応」と意味深な台詞を放った。

「一応?」

 夏央がきょとんとして聞き返すと、「あ、いえ、何でも。青花君はこのクラスです」と一年生はあわてて訂正した。そのしぐさに佳純たちは疑問を抱きながらも、彼の居所を問うた。

「青花君は、今どこにいるか知ってる?」

 夏央の問いに一年生は不吉そうな顔をして「えっと……」と言いにくそうにしていた。何かあったのだろうか。彼に。佳純は不安を隠せなかった。しかしそれ以上に夕莉の瞳が揺れ動いていた。互いの握る手の力が強くなった。

「どうかしたのか?」

 夏央が問いただすと、一年生はおずおずと話した。

「今朝、体調を崩して保健室に運ばれました。もしかしたらもう帰っているかも。今朝っていうか、もうずっとこんな感じで、しょっちゅう倒れるし、もう勘弁してよって感じなんですけど」

 一年生の顔には明らかに迷惑している表情が浮かんでいた。言葉にも彼に対する棘が感じられた。佳純の心臓に刺すような痛みが走った。瞬時に夕莉の顔を見る。彼女も頭から冷や水をかけられたような呆然とした色のない顔色をしていた。唇が軽く震えていた。

「……教えてくれてありがとう。皆、行くぞ」

 夏央が固まってしまっている佳純と夕莉の肩をポンと叩いた。そして大股で歩き出す。冬華も「行こう」と真剣な瞳で二人に語りかけた。佳純は夕莉と握っていた手を離して、おろおろと夏央たちについて歩いた。夕莉が横で兄の名を呼んだのが聞こえた。

 

 廊下を突き抜けたところにある保健室へ入ると、夕莉が「先生」と保険医のほうへ駆け寄った。保険医はまるでずっと待っていたかのように、柔らかな笑みを携えて「青花さん」と夕莉の肩に手を載せた。

「青花君。お友達が来てくれたよ」

 保険医が奥のカーテンをそっと開けて、中の様子を見た。続けて「……友達? 舞衣か?」とあの懐かしい低い声が聞こえた。眠いのかどことなくとろんとしている声が余計に懐かしさを増幅させた。

 カーテンの奥から、翠が現れた。しばらく経った間に背が伸びたのか、身体つきがほんの少しだけ大きくなったような感じがした。切れ味鋭い刃物のようなスッとした目に、困惑したような瞳がその場にいる者を捉えていた。

「久しぶりだな、翠」

 夏央が代表して彼に挨拶をした。

「ああ、久しぶりです。すみません、ずっと忙しくて……」

 翠は夏央を見るとほっとしたように笑顔を浮かべた。「冬華先輩も久しぶりですね」と言いながらベッドから下りて、二人に歩み寄ろうとした。

 その時、夏央と冬華の陰に隠れていた夕莉が、ひょこ、と顔を出した。佳純も続けて翠の前に姿を見せたが、彼は自分には目もくれていなかった。妹の姿を見て、時が止まったかのように硬直した。そして見る見るうちにその冷たい美貌が殺気を漂わせた。

「お兄ちゃん」

 夕莉はそのことに気がついていないようだった。

「久しぶり。身体は大丈夫?」

 当然のように兄を気遣った妹に、翠は、突き刺すような鋭い視線を向けた。

「何でここがわかった」

 押し殺したような声に何かを感じ取ったのか、夕莉がおびえたようにビクッとした。

「一般クラスに移ってから、ずっと体調悪いって聞いて、お兄ちゃんのクラスの出し物に皆で行ったんだけど、いなくて、保健室にいるって言われたから」

 たどたどしく説明する夕莉に、翠はこれ以上ないほど殺気じみた瞳で、がなった。

「出て行けよ」

 その場にしんとした沈黙が流れた。皆が彼の威圧感に負けてたじろいでいた。

「あの、私、ずっとお兄ちゃんのことが心配で」

「うるせえんだよっ!!」

 夕莉の紡いだ言葉を、翠は怒声で叩き潰した。夏央たちまでもがどうしたらいいのかわからず互いに困惑した表情で見つめ合っていた。

「何でこうも俺の前に現れるんだよ! もういい加減離れろよ! 俺がどんな思いで……!」

 そう言いかけたところで、突如ドアが開いた。何のためらいもなく入ってきた一人の女子生徒に、全員が唖然とした。佳純は彼女を見ると「あっ」と小さな声を上げた。あの時同じように堂々とデイケア組に入ってきた女子生徒―飯塚舞衣がいたのである。

「ま、舞衣?」

 夏央と冬華がそろって素っ頓狂な声を上げた。やはり彼らは知り合いらしい。

「あら、失礼。お取込み中?」

 舞衣はすました声で冷静に事の状況を把握した。

「翠を迎えに来たんだけど。倒れたって聞いたから」

 先ほど夕莉が言ったこととほぼ同じことを言いだした舞衣に、ただ一人、翠だけが返事をした。

「ああ。来てくれてありがとう。一緒に帰ろう」

 翠は誰の顔を見ることもなく、保険医から学生鞄をひったくって夕莉の横を通り過ぎた。妹に一瞥すらくれなかった。佳純は隣にいる夕莉からあふれ出ている激情を、受け止めきれずに逸らした。翠は舞衣のもとへ行き、「いきなり大声出してすみませんでした、先生。それじゃあ先に失礼します。夏央先輩、冬華先輩、お元気で」としらじらしい挨拶をするとバタンと無情にドアを閉めた。その場にいる誰もが動けなかった。

「何で」

 夕莉がこらえきれなくなったように、一言つぶやいた。

「何で。何でよ。ちゃんと言ってよ」

 夕莉の息が上がり始めた。ついに彼女はしゃくり上げてその場に泣き崩れてしまった。苦しそうに息を吐き、頭痛が起こったのか頭を両手で抱えてしゃがみ込んで、「うぅ……」と喘いだ。倒れてしまった夕莉を保険医と介抱しながら、佳純は気まずそうに顔をしかめている夏央と冬華に、言葉を放った。

「先輩、話してください。飯塚舞衣さんと、あなたたちは、どういう関係なのか」

 夕莉を空いていたベッドに運びながら、夏央と冬華も観念したようにソファーに腰かけると、佳純に事情を話し出した。

 翠と飯塚舞衣が初めて出会ったのは、ボランティア部がデイケア組に接触した頃だった。

 翠はその時、夕莉に付きっきりで登下校していた。夕莉に気づかれないうちに一般クラスに接触するのは、昼休みの時しかなかった。翠はその時間を有効的に活用して、昼の活動をしているボランティア部にたびたび会いに行っていた。

 飯塚舞衣は、夏央と冬華の腐れ縁だった。

 彼女は保健委員会の副委員長で、昼休み時間に週に二回、保健室に滞在していた。夕莉と面識がないのは彼女が昼休みは佳純とともに弁当を広げている頃だからだろう。翠はその間、夏央たちのところに行き、彼らを通して舞衣と知り合った。次第に翠は彼女と仲良くなった。その時から、彼の妹離れは始まっていたのだろう。なぜ急に夕莉を拒絶するようになったのかは理由が掴めないが、翠は「外」の世界に憧れを抱き始めた。デイケア組に甘んじることは、翠にとって、許しがたい屈辱なのだろう。彼は佳純たちの組を出て行きたくなったのだ。夏央たちと出会ったあの日から。

 佳純はそこまで聞くと、ベッドで寝込んでいる夕莉に真相を告げた。夕莉は泣きながらもしっかりと兄の事情を聞きとっていた。話を聞き終えると夕莉は一言「ごめん。弱くて」とか細い声で言った。佳純は曖昧な笑みだけを浮かべた。

 夕莉が落ち着くまで、佳純は保健室で待っていた。後夜祭を控えた空は橙色の夕暮れを地平線に残して青々と深くなっていた。夏央と冬華は周りとの付き合いがあるため、最後まで佳純たちに詫びながら保健室を先に出て行った。佳純は薄暗い青の空に佇む薄い雲を窓越しに見上げながら、実家で暮らしていた頃の広々とした空と重ね合わせていた。

「お兄ちゃんが、寮にまで入ったのは、私のせいだったのかな」

 夕莉の声が途切れ途切れに聞こえたのは、後夜祭が始まって皆の楽しそうなざわめきが聞こえ出した頃だった。

「私はずっと嫌われていたのかな」

 彼女のあきらめに満ちた声に、佳純は思わず過去の一部を吐露した。

「私も、ずっと兄に嫌われていたから大丈夫。あなただけじゃないよ」

 夕莉が驚いたように身体を起こした気配がカーテン越しに伝わった。佳純は「そろそろ帰れる? あとで先輩たちにメールしておこう」と言って夕莉の学生鞄を持ち出し、ソファーから立ち上がった。カーテンが開いて、夕莉が泣きはらした目でベッドから下りた。「鞄、ありがとう」と言いながら佳純から荷物を受け取り、黙って状況を見守っていた保険医に頭を下げながら、二人は学校から帰った。

 帰り道、佳純は校門を抜けようとした夕莉を止め、こっそりと後夜祭で盛り上がっているグラウンドへ足を運んだ。皆に見つからないように、そっと木の茂みに隠れたベンチに腰かけて、訥々と夕莉に過去の家のことを話した。記憶をたどると死んでもいないのにまるで走馬灯のように兄たちの顔が一人一人浮かんできた。

「私は」

 これは絶対に誰にも言わなかった過去だ。それを今、言う。友達のために。自分の分身のために。

「兄に、二階の窓から突き落とされたの」

 夕莉が息をのんだ。これを話したら自分は息ができなくなるのではないかと思っていたが、意外にも頭は冷静で、呼吸は正常のままだった。

「私の家はここからすごく遠い田舎の村でね。兄が五人いて、両親と八人家族だった。大家族だったから珍しいってよく言われていたな。でも、お母さんが死んじゃってからお父さんが狂っちゃって。兄たちに事あるごとに八つ当たりしていたの。私は台風の目のような立ち位置で、私だけ父に愛されていて穏やかだった。それで、落とされちゃった。二階から」

「……誰に?」

 夕莉がおずおずと訊いてきた。佳純はありのままの心情を述べた。

「それが、わからないの。突き落された時に覚えているのは、夕暮れ時の夜が迫った暗い空と、やけに綺麗な夕焼け。そして家の庭の大きな蜜柑の木。その木に引っかかって私は助かったの。八歳の時だったから記憶に残っているのはそれくらい。誰に落とされたのかは誰も教えてくれない。自分で探し出すしかない」

 佳純は、あの時と同じような深い青に染まった空を見つめ続けていた。夕暮れ時の空は、青だ。橙色の夕焼けは、地平線にしかない。本当の夕暮れとは、深い悲しみのような青い空のことなのだ。

「……少し、昔の話をしてもいい? あなたを救えるヒントが隠されているかもしれない。私とあなたは、似ているから」

 夕莉が決心したようにうなずいた。佳純は心の奥底にしまった記憶の箱を開けて、ゆっくりと自分の身に起こった出来事を語り始めた。

 

 母が亡くなったのは、五歳の時だった。

 事故か病気か、もう覚えていない。確かめる術もなかった。太陽のように光り輝いていた母がいなくなり、皆に平等に注がれていた愛は大きく歪み始めていった。

 五人の兄は、長兄と次兄がしっかりとした人で、下のほうの五兄は落ち着きがなくドジばかりしていた。母はこの三人の兄のことが割と好きで、真ん中の三兄と四兄は放っておいた。そして佳純のことは、目に入れても痛くないほど可愛がっていた。そんな風に八人の大家族は成り立っていた。

 そのバランスが、母の死をきっかけにあっけなく崩壊した。まるでトランプカードのタワーが崩れるように一瞬で何もかもがなくなった。

 しばらくは父と兄たちの膠着状態が続いた。大らかでどっしりとした父は母を失ってからピリピリと殺気を放った男に変貌した。喧嘩に明け暮れる中、母親の役目はだんだんと長兄と次兄二人が担うことに決まった。佳純の幼い頃の記憶は、男たちの怒鳴り声と罵声だった。部屋の隅で震えるように息をしていた。お母さん、と何度心の中で口にしていたか知れない。

 ランドセルを買ってくれたのは、父だった。小学校入学の時には父はだいぶ落ち着き、佳純を連れてランドセル売り場へ行った。どんなやつがいい? と尋ねる父は、ごく普通の優しいお父さんのように見えた。佳純と接する時だけ、父は親の感性を取り戻していた。

 入学式には長兄と次兄が来てくれた。父は仕事だった。一年生のクラスへ行き、自分と同じ年齢の子どもたちがわらわら集まっている光景を不思議な気持ちで見つめていた。

 あなたの家、大家族なんだよね? お母さん死んじゃって大変だね。地元の小学校の子どもたちは皆、親から佳純の家の事情を聞きとっていたらしく、それぞれ言葉尻を変えながらこんな風な台詞を言った。佳純は曖昧に笑った。

 年月が経つうちに友達が何人かできて、家に招待され、驚いたのは自分一人の部屋が与えられていることだった。佳純は父と一緒の部屋で生活していた。兄たちは大部屋で一緒くたにされていたので、一人部屋という世界が想像できなかった。カルチャーショックを受けながら友達の母親が出したお菓子を食べている時、自分だけ空間が歪んだ場所にいるような疎外感と漠然とした不安が押し寄せてきた。私だけ違う。私の家だけ違う。なぜか泣きたくなって、友達と遊ぶことに集中できないまま微妙な時間帯に帰宅した。家には誰もいなかった。

 玄関のドアが開いて兄のうちの誰かが帰ってくるまで、佳純は居間の座椅子に座り込んで膝を抱えて待っていた。喉がカラカラに乾いて、台所でジュースや麦茶を飲んだりしながら、また玄関が見渡せる位置に座椅子をずらして待った。

 ガチャン、と鍵が勢いよく回る音がして、重い扉が開いた。佳純が力いっぱい引っ張って開ける扉を、軽々と開け放って家に上がり込んだ兄を見て、佳純はとうとう無我夢中ですがりついた。

 お母さんを返せ! お母さんを返せ! 何で私の家だけ違うんだ!

 叫ぶうちに涙が出て鼻水と一緒に流れ、佳純の顔はボロボロに崩れた。力任せに叩いてもびくともしない兄の胸板が、こんなにも憎たらしく見えたのは初めてだった。

 ふわり、と身体が浮いた。兄に抱きかかえられたのに気づいた。佳純がぐずっていると、兄はそのまま二階へ階段を上がり、ベランダに出た。

 自分を慰めてくれているのだろうか、と目いっぱいに広がった夕暮れの迫る空を見た。地平線に日が浮かび、そこに雲がかかって激しいピンク色に染まっていた。真上のほうを見ると兄の顎の先から深い群青色の空が見えて、星たちがキラキラ光っていた。綺麗、と思った。

 ふいに身体の重力がなくなった。星空がガクンと落ちて猛スピードで世界は一点に向けて消えていった。頭か身体か、強い衝撃が走って視界が暗くなった。

 気を失う間際、ベランダが見えた。兄がこちらを覗き込み、薄い笑みを浮かべていた。

 そのあとの記憶は、もう聡子と稔に出会った施設の場所だった。長兄が佳純の手を強く握りしめ、この子をよろしくお願いします、と頭を下げた。聡子たちは優しそうな大きい掌で、佳純の頭を撫でた。絶対に守り抜きます、と稔の声が降ってきた。記憶を取り戻しそうになったら連絡をください、と伝えると、長兄は佳純と握っていた手を完全に離した。家族がバラバラになることに対してはそんなに驚かなかった。もうずいぶん前から自分たちはバラバラだったのだから。では私を落としたのは一体誰なのだろう、とそれだけが気がかりだった。

 聡子たちの家に来てから数日と経たないうちに、今度は悪夢を見始めた。

 ほぼ毎日のように見続けて、夜中に泣き叫んで飛び起きた。眠るのが怖くなった。次第に眠れなくなって、布団の中で身体を丸めて泣き続けた。聡子たちが心配して佳純をいろいろな病院に連れていった。四回目の診察で、現在の精神科医に行き着いた。

「あなたは運がなかっただけです」

 それまで悪玉菌のように繁殖していた負の感情が、すとんと落ちて消化されていくのを感じた。運がなかっただけ。その言葉は魔法のように佳純の心を洗い流した。それからは毎月そこの病院へ行って診察を受けている。

 薬をもらって飲むようになってから、悪夢を見る頻度は少なくなり、やがてごくたまにしかうなされなくなった。悪夢に起きた日は、常備している薬を飲んで窓から空を眺めた。真っ暗闇の空に星や月が浮かんでいるのを見つけた日は嬉しくなった。佳純にとって空とは、心の安定剤のようなものだった。

 兄たちから連絡が来たのは、聡子たちとの暮らしに慣れてからしばらく経った頃だった。最初に手紙をくれたのは長兄で、すぐあとに次兄、しばらくして五兄も連絡をくれた。何気ない近況報告の中に、佳純をいたわる文が綴られているとほっとした。五人のうち三人と繋がりがあるのなら、それだけでいいと最近は思えるようになった。

 この中に一人、自分を窓から落とした兄がいる。その真実は針のようにプツリと佳純の肌を刺しては痛んだが、知りたくもないことは知らないままのほうがいいと佳純は自分自身に言い聞かせていた。このままの関係を維持したいと、切に思った。時々ひどく鬱屈とした気持ちになる心を抱えながら。

 

 グラウンドではしゃぐ生徒たちを遠目に見つめながら、佳純は夕莉に過去のことを話し終えた。夕莉はじっと耳を傾けていた。時折、相槌を打ちながら、佳純の紡ぐ言葉に聞き入っていた。

「あ、夏央先輩と冬華先輩のクラス、賞取ったみたいだね」

 佳純がふと話題を変えると、夕莉も視線を移した。遠くで夏央がクラスメイトと熱い抱擁を交わしていた。冬華のほうはクラスの女子たちと手を取り合って喜んでいた。

「青春って感じだなあ」

 夕莉が溜め息交じりにつぶやいた。その声の調子に羨ましがっているような感情を佳純は感じ取ると、「私たちも青春したじゃん」と返した。

「うん、まあ、午後しか参加できなかったけど。……ごめんね、あんなに取り乱しちゃって」

「いいよ。もともとは私が言い出しっぺだから。……もう外、暗いね。帰ろうか」

「うん」

 佳純と夕莉はそっとベンチから立って、そろそろとグラウンドを後にした。先に帰るという旨を夏央と冬華にメールで伝え、今日はいろいろとご迷惑おかけしました、という文章を添えて送信すると、二人はゆっくりと帰り道を歩いた。

「頭痛は治まった?」

「うん、だいぶ」

 先ほど倒れた夕莉は、頭に手をやりながらも気丈に答えた。

「ありがとうね。つらい過去のこと話してくれて」

 夕莉は礼を述べると、髪をまとめていたバレッタを外して手串で広げた。佳純も縛っていた髪をほどく。いつもの自分に戻ると今日一日の疲れがどっと出た。

「私のお兄ちゃん、何も言わないから。いつも私に黙って何でも決めちゃう」

 夕莉は少し笑いながら、とっぷりと夜の満ちた空を見上げて歩いた。

「きっと、兄と妹っていうのは、荷が重すぎる関係なんだよね」

 彼女がその台詞を言うと、それはとても説得力のある言葉に思えた。佳純は夕莉に寄り添って、バス停とモノレール線に分かれる駅の入り口まで進んだ。

「ヒント、見つかりそう?」

「うん、何とか」

 私たち、やっぱり似ているから。そう言いたげな夕莉の視線に佳純は笑顔で返した。

「じゃあ、明日は文化祭の後片付け日だから、私たちは休みだね。明後日また学校でね」

「うん。バイバイ」

 夕莉は手を振るとモノレール線乗り場まで改札を通っていった。バイバイ。さようなら。また明日。もう何度この言葉を伝えてきたのだろう。また明日会えるなんて、どうして思えるだろう。別れの言葉はいつでも自分に過酷な試練を課してきた。もう、終わりだろうか。もう、言ってしまおうか。あなたの兄に恋をしていると。あなたの兄のことが好きだと。

 自分も、三学期から一般クラスに編入するつもりなのだと。

 

 待ち合わせ場所の駅のロータリーに行くと、長兄がすでに待っていた。約束の時間の五分前に到着したのだが、長兄はそれより早く待機していてくれたらしい。そばにいる時は気づかなかったが、離れてみてわかったことがいくつかある。彼は几帳面で時間には正確な人だった。

 今年で二十五になる長兄は、もう立派な大人の男の風貌に近づいていた。身体つきがすっきりとして、社会に出たての新人の頃からだいぶ揉まれた余裕のある表情が、佳純との長い隔たりの年月を物語っていた。もうこの人は他人と言っていいくらい、佳純の心は達観していた。

 文化祭を終えていつもの気だるい毎日がやってきた秋の半ば、聡子を通して長兄から連絡が来た。土日でどこか会えないかという誘いを受けたのは初めてだった。思えばあれ以来、直接的な関わりを避けてきたともいえる。何かあったのかもしれないと、佳純は不安と期待で押し寄せ合っている感情の波にたゆたっていた。

 実際に会ってみると、話は弾んだ。長兄は気を使ってくれているのか、慎重に言葉を選びながらも佳純から思い出話を上手く引き出せていた。

「そうか。友達できたか」

 コーヒーを一口飲んで、長兄は言った。

「でもどうして、せっかく入ったデイケア組を編入してまで一般クラスに?」

「……世界を、もっと広く見てみたいの」

 怪訝な顔をされるかもしれないと思ったが、彼は佳純の回答を笑ったりはしなかった。少し黙り込み、それから吐息を一つ吐いて、昔を思い返すように懐かしげな瞳をした。

「佳純は昔から箱入り娘だったからな。父さんも母さんもひどく甘やかしてさ」

「……うん」

「俺らなんか男だから、皆放っておかれて勝手に育って。佳純が羨ましかったなあ。お前はずっと大人の誰かにべったりだっただろ?」

 そう言われて、自分が保育園児だった時のことを思い出した。確かに一番気に入っていた保育士に四六時中つきまとっていた記憶がある。

「……よく覚えているね」

「俺は物覚えがいいのですよ」

 長兄が少し自慢げにかしこまった。佳純は笑って目の前にある紅茶を口に含んだ。甘さと苦さが同時に舌に伝わって気持ちよかった。

 ……やはり、彼なのだろうか?

 佳純の疑心はなおも鋭い光を放って向かい側の男を捉えていた。佳純が窓から落とされた八歳の時、兄たちはまだ学生だった。誰があの時間帯に帰宅してもおかしくないのだ。

「……ほかの人たちは元気?」

 それとなく尋ねると、長兄は目を細めて笑った。

「ああ、あいつらはしぶといから。お前が気にすることなんて何もないよ」

「そっか。ならよかった」

 佳純は再び紅茶を一口飲んだ。

「変わってなくてよかった」

 長兄は声のトーンを少し落として、安心するように一言漏らした。

「聡子さんたちから、お前がずっと悪夢にうなされているのを聞いていたから、どうにも心配で。でも抜け出せたみたいだから、よかった」

「……うん」

「お前は昔と変わらない。ずっと末っ子で、ずっと甘えん坊の、わがまま娘だよ」

「お父さんみたいなこと言うね」

 佳純がおどけて言うと、長兄の表情が一瞬固くなった。すぐにいつもの穏やかな顔に戻して、彼は残りのコーヒーを飲み干した。

「せめてお母さんみたいだと言ってくれよ」

 そうおどける長兄に、佳純は「そうだね。ごめん」と自分もおどけて返した。

 喫茶店を出て、アーケード街を二人でしばらく見て回ると、夕方近くになった。デパートで佳純が今人気のマスコットキャラクターのスケジュール帳を見つけ物欲しそうにすると、長兄がすぐに気づいて買ってくれた。「お兄ちゃんは何でも買ってくれるなあ」と感心すると、「高校の時から俺は母親の役目だったからな」と兄のまんざらでもないような声が返ってきた。デパートから出ると、外はだいぶ暗かった。今日もいい天気だ。空は青く澄み渡り、夜に差し掛かる海の底のような群青色が、星を一つ二つ輝かせていた。

「お前、よく空を見るよな。そんなに綺麗?」

「うん。とても」

 顔を上げて建物の間から見える夕空を視界に収めると、佳純は兄と歩き出した。

 帰り道を長兄に送ってもらいながら、佳純は訊くべきかどうか迷っていた。母がどうして死んだのか、自分は誰に憎まれていたのか、思い出すべきことはすべて思い出していた。

「お兄ちゃん、家の前まで送ってくれる?」

「ああ、いいよ」

 長兄は快く承諾して、一緒にバスに乗って佳純の住む住宅街までついてきてくれた。バスに揺られている間、二人は当たり障りのない世間話をしてその場をしのいだ。長兄も感づいている。佳純が過去の記憶を取り戻したことに。

 バスを降りて、聡子たちの待つ一戸建ての家の前に二人は向かい合った。何か言おうと頭の中で言葉を探している兄とは対照的に、佳純はスラスラとまるで芝居のように台詞が口から舌に乗って出てきた。

「私を落としたのは、五番目のお兄ちゃんね? あの時家に帰ってきたのは、あなたとそのお兄ちゃんでしょ?」

 問うと、長兄はこの世の果てのような暗い瞳を浮かべた。

「そしてそのきっかけは、お父さんなのね?」

 長兄は俯いて、罰を受ける罪人のようにうなだれていた。そしてゆっくりと口を開いた。

「どこにでもある、ごく普通の親子喧嘩だよ。馬鹿みたいな話さ。あの晩、あいつと父さんは激しい口喧嘩をしたんだ。原因は、何だったかな、思い出せないくらい些細なくだらないことで。お前は部屋の隅っこで震えて泣いていた。お前がそうなる時、俺は決まってお前をなだめるために空を見せていた。うちの庭は広かったから、庭に出て、一番星を一緒に見つけた。お前をあやすのは俺の役目だったから。あいつは俺たちのことをずっと見ていたんだろう。その翌日、お前が落とされた。理由は、父親への八つ当たり。お前が一家で重宝されていたから、あいつはお前を落とすことですべてをぶち壊してしまいたかったんだろう。俺とあいつが家に帰った時泣きついてきたお前を抱いて、あいつは言った。俺が見ているから兄貴はいいよ、と。俺は何の疑いもしなかった。夕飯の準備をしていると、庭ですごい音がした。お前が倒れていた。あいつは、笑っていた。そのあとのことはもう思い出したくもない」

 長兄は顔に手を当てて苦しそうに呻いた。「だけど、どうして……」とかすれた声で訊く彼に、佳純は「蜜柑の木」と答えた。

「蜜柑?」

「そう。五番目のお兄ちゃんからの手紙に、今も蜜柑の木を見るとお前のことを思い出します、という文章が書かれていたの。蜜柑はお前が生まれた年に植えたらしいですよ、とも。私が助かったのは、あの木に引っ掛かったから。うちでは蜜柑のことを気に掛ける人なんて誰もいなかった。あなたでさえ、私をあやす時は空を見せて庭の木のことを忘れていたでしょう? お兄ちゃんたちの中で蜜柑の存在に気がついているのは、五番目のお兄ちゃんだけだった。きっとあの人は、計画的に私を落としたんだわ。殺さずにひどい目に遭わせる方法を、ずっと探していたんだと思う。あの庭で一番大きかった蜜柑の木の上に落とせば、命が助かると思ったのでしょうね」

 五兄は、いつも父親に怒られていた。気が弱くて、泣き虫の癖がいつまでも治らなくて、馬鹿にされていた兄。彼の親に対する憎しみはそのまま肥大して佳純を材料に使う動機にまで至った。

「俺が」

 長兄が両手で顔を覆った。

「俺が、お前をあやしていれば。もっとあいつのことを気にかけていたら」

「多分、お兄ちゃんたちにお母さんの役目は、荷が重すぎたんだよ」

 佳純の心は穏やかだった。詭弁ではなく、誰のことも恨んではいなかった。

「荷が重いのに、自分じゃ似合わないことはわかっているのに、その仕事をしなくちゃいけないことって、あるよね」

 長兄はしばらく佳純の放つ言葉を聞いていた。顔を覆っていた手を離す頃には、いつもの落ち着きを取り戻していた。

「スケジュール帳、買ってくれてありがとう。大事にするよ」

 佳純は別れを言った。買い物袋を見せて、思い切り笑った。彼を安心させるために。

 長兄は何かをこらえるような表情で、無理に笑った。

「元気に暮らせ。聡子さんたちと幸せになれ」

「うん」

「今度こそ、俺たちを見返せよ」

「約束する」

 佳純と長兄は互いに手を振り合った。血の繋がりは切れない。この先また何かの因果で会うかもしれない。その時は、その時だ。いつか他人のように振る舞えたら、それが自分の救われる時だ。

 門扉を開けて、玄関の扉を閉める間際まで長兄は手を振り佳純の姿を見届けてくれた。家の中に完全に入り、彼の気配が消えた頃、佳純は、さようなら、と一言告げた。

 

 気温が下がったな、と週末の天気予報を見て、佳純は夕莉に連絡しようかどうか迷っていた。

 文化祭明けの学校は皆何かに燃え尽きたような様子でだらだらとした空気が流れていた。もっともその様子が顕著なのは本校舎の生徒たちで、デイケア組の地下の校舎にいる佳純たちはいつもと変わりなかった。大きな学校行事は終わり、あとは冬休みを待つだけとなった。夏央たちの学年は修学旅行があったが、九州地方に三泊四日で出かけるだけだと特に何の感慨もなく言い切った夏央と冬華は、今ちょうどその時期で学校を留守にしている。文化祭のすぐあとだと気持ちの切り替えが大変だろうな、と佳純は思いながら、もう一つの重要事項をいつ彼女に伝えようか考えていた。

 私があそこを出て行ったら、夕莉は一人ぼっちになる。

 彼女の涙に濡れた顔を想像した。驚くほどすぐにその映像が頭に浮かび上がってきて、つまりそれほど夕莉はよく泣いているということだろう。

 あの子は、本当に笑わない子だ。

 夕莉のことを思うと、胸がズキリと痛む。捨て犬を腕に抱いた時のような悲しくて見捨てられないような気持ちになる。それでも佳純は知っていた。自分は彼女を置いていくと。そして初恋の人と同じ環境に飛び込むと。夕莉の情は重すぎる。がんじがらめになった愛だ。しかし自分も似たような人間なので彼女のことを批判することはできなかった。

 居間のソファーに体育座りの姿勢で足を抱え、テレビに映る明日の天気を見た。曇り時々晴れ。秋雨前線の通過する時期の中で久しぶりに晴れ間がのぞくのかと思考に耽りながら、聡子の夕飯の手伝いをした。聡子は手際よくキャベツを千切りにしている。佳純は味噌を研いで三人分の具材を取り分けた。「もうご飯ね」と聡子がカツを揚げて皿の上に手際よく乗せ、千切りにしたキャベツをさっと乗せた。佳純がそれを持っていき、その時にちょうど稔もやって来てテレビを見始め、聡子が味噌汁を盛り分けて食食卓に運んだ。夕飯の準備が整い、皆で「いただきます」とご飯に手をつけた。何度この幸せな瞬間を経験しても、あの時兄に抱えられて見上げた夕空の美しさは忘れられなかった。自分の居場所は、どこなのか。佳純はまだわかりかねていた。

 

「おはよう」

 夕莉に声をかけられて、自分がぼうっとしていたことに気づいた。朝の読書時間がもうすぐ始まる時だった。ギリギリに着いた夕莉を見て、「おはよう。今日は遅いね」と笑顔で返した。「うん、ちょっとね」と言う夕莉の顔はどこか嬉しそうだった。

 一緒に登校することはもうなくなっていた。それは合図も何もなくごく自然に訪れた。どちからともなく二人はそれぞれ好きな時間に学校へ行っていた。ただ家へ帰る時は相変わらず一緒だった。隣を歩く夕莉は、最近は佳純の左側を歩く癖がついていた。

 担任教師が入ってきて、十五分間の読書は始まった。佳純はそろそろ読み終わるティーンズ向けの小説を広げた。ちらりと夕莉の背中を見ると、彼女はびっしりと隙間なく羅列された文章の本に集中していた。何やら難しそうだな、と思った。

「何読んでいたの?」

 昼休み、机をくっつけて弁当箱を広げ、佳純は夕莉に尋ねた。すると彼女はぱっと花が咲いたように笑った。

「お兄ちゃんが私に送ってくれた本」

 びっくりして、思わず箸を落としそうになった。あの冷たい美貌が一瞬で佳純の脳裏に浮かんだ。

「す、すごいじゃん! 連絡があったの?」

「うん。昨日、包装されて家に送られてきたの。宛先見たらちゃんとお兄ちゃんの字だった。手紙もついてて」

 佳純は逸る心臓で「へえー」と上ずった声を出した。この二人に進展があったことは何より嬉しい。翠はまだ妹のことを見捨てていなかったのだ。

「どんな本なの? 小説?」

「ちょっと昔の本。文章もいっぱいあって、内容も難しくて、挿絵もないから少しずつしか読めないんだけど……。お兄ちゃんの手紙に『最後まで読め』って書いてあって」

「じゃあ、ちゃんと読まなくちゃね」

 夕莉は「うん」と照れながらうなずいた。今日は食欲もあるようで、ご飯を進めるのが早かった。その満ち足りた表情を見て、佳純は、きちんとこの友達に本当のことを話そう、と決意をした。今の彼女になら、すべてを打ち明けてもいいと思った。

 午後の授業を終えて、夕莉とともに歩く帰路。佳純は三学期から翠と同じ一般クラスへ編入することを告げた。移るクラス先も知らされていて、翠とは違う組だったが、移動教室の時間割次第では鉢合わせることもあり得るということも話した。そして、彼に恋をしていたことも。

 夕莉は、もう泣くようなことはなく、ただ静かに聞いていた。佳純としっかり目を合わせ、「そうか。がんばってね。大変だろうけど」と笑みを浮かべた。その微笑を見て、彼女も兄と同じく、とても美しい少女なのだということを佳純は思い知った。

 なんてきれいなのだろう。

 ふいに泣きたくなった。勝手に進路先を変えたのに、何一つ相談すらしなかったのに、彼女はすべてを受け入れていた。夕莉に涙を見せたくなくて、顔をそらした。それきり二人は黙った。しばらく肩を並べてゆっくり歩いていると、夕莉がぽつりと言った。

「実はあの本、途中の内容を飛ばして、最後の結末読んじゃった」

 彼女は「へへへ」と笑った。佳純がポカンとしていると、夕莉は悪戯っぽく肩を小突いた。

「好きなら後悔しないように勇気出しなよー」

「あ、あの、話の内容はどうだったの?」

 佳純がたじろぎながら訊くと、夕莉は「ああ」と朗らかな笑みで話した。

「ストーリーはね、冒頭部分で主人公と大の仲良しだった一つ上のお兄さんが死んじゃって、その人の葬式のシーンから始まるの。それで主人公は悲しみの淵をさまよいながら、最終的にお兄さんの亡霊を見て、彼の魂の言葉を聞いて、この世界で生き抜くことを決心するの。それ以来、もう二度とお兄さんの言葉を聞けなくなっちゃうんだ。そこで終わり」

「……何か、悲しい話だね」

「うん、でもね」

 夕莉が何かから解放されたように、爽やかな笑顔を見せた。

「私、救われた。上手く言えないけど、お兄ちゃんが私に何を伝えたいのか、何となくわかったから」

 それにね、と夕莉は続けた。

「メモが挟まれてあったの」

「……メモ?」

「うん。本から落ちないようにセロテープで貼っていてさ。最後のページの、作家と編集者の名前や発行人とか印刷所の名前が記載されているページ。そこにノートの切れ端みたいなやつがあって、お兄ちゃんの字が綴られていた」

 夕莉は前を向き直して、懐かしむように言った。

「生きて、元気に暮らせ。もう逢うことはないだろう」

 佳純は胸がキュッと締め付けられるような途方もない気持ちになった。「これ、作中の登場人物の台詞なんだよ。あの人ってロマンチストだったんだね」と夕莉は少しおかしそうに吹き出した。佳純は夕莉の笑い顔をずっと見ていたいという思いを抱いた。彼女は、間違いなく自分の親友だった。

「佳純、私は、もう大丈夫」

 夕莉はなおも前を見つめて、力のこもった声を出した。

「大丈夫。絶対に大丈夫。言い切れるから、一般クラスに移って。がんばって。また遊びに来てね」

「……うん」

 泣かないようにするのが精一杯だった。夕莉の美しい横顔をずっと見ていたかった。進もうと決めたのはほかでもない自分自身だ。親友の夕莉に誓って、絶対に後悔はしない。彼女と別れることを。翠のことを好きになったことを。この先、この二人とどんな関係になるだろうか。兄たちと同じように疎遠になるだろうか。また一緒になれるだろうか。わからない。でも私たちの深すぎる苦しみは、今ようやく終わろうとしている。そしてまた新たな苦しみも生まれるだろう。そんな時は、大切な人たちの笑顔や言葉を思い出せばいい。

 バス停への分かれ道に差し掛かり、佳純は夕莉の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。「さようなら」「また明日」と二言だけを告げて。

 バスの中はがらんとしていた。こんなに空いているのは初めてだ。乗っているのは二組の年寄り夫婦と一人の若い男性だけだった。

 一番前の座席に座った。ぐっと体重を乗せて、ポコッと突き出た最前席に腰を下ろすと、窓から真昼の日差しがまぶしく道を照らしていた。

 これからは、帰る時間帯は夕刻の始めだろう。空は少しずつ暗くなるのが早くなっている。秋は深まり、冬が近づいている。三学期は真冬の一番寒い時期だ。今年は雪が降るだろうか。

 夕莉のことが好きだった。翠のことも好きだった。二人を心から愛していた。

 目の前の景色が歪み始めた。にじみ出た涙は佳純の頬を濡らし、バスの車内の薄暗い沈黙はエンジン音が響くだけで誰一人として騒がなかった。周り中が他人なことで、救われることもあるのだということに佳純は気づいた。あの息苦しかった実家。皆が監視者のように佳純の家を見張っていた。ここでは誰もが他人だった。聡子と稔でさえも。やっと、一人で泣くことができた。家に帰ろう。新しい家に。未来を、生きなければいけない。

 佳純は声も立てずに泣いた。幼い頃から誰にも知られないように泣くのは得意だった。部屋の片隅で、じっとうずくまっていた。ぽろぽろと落ちる涙は手の甲に落ちて、服の袖に落ちて、温かかった。

 バスは、住宅街へと入った。停車ボタンを押し、降りた。空を見上げると、厚めの雲の中から太陽が丸い輪郭を伴って光を注いでいた。

 もう、大丈夫。

 誰かの声を聞いた気がした。それは夕莉だったり、翠だったり、聡子や稔だったりした。その声は形を変えて佳純のそばに佇んでいた。この言葉とともに、歩いて行ける。

 涙は乾いていた。佳純は深呼吸をして、しっかりとした足取りで、家へと歩いていった。

 さようなら。また明日。もう、大丈夫。

 

  ➡3話(最終話)へつづく。

 

○作中にて桜庭一樹先生の『無花果とムーン』を参照致しました<m(__)m>。

 

ちょっと自分では納得してないお話。エンタメ私小説 第二弾 『きっと明日はいい天気』

 こんにちは('ω')ノ。

 21?くらいの頃にだらだら書いてた小説を載せてみますね。($・・)/~~~エイヤッ。

 去年あたりに書いたエンタメ私小説の第2シーズンだと思って頂けると嬉しいです。(^▽^)/

 

題名 『きっと明日はいい天気』―Happy Soul……!―

 

   一 青花夕莉

 

 今日も頭痛で目が覚めた。寝返りを打っても頭は痛くなる一方なので、あきらめて起きる。時計を見た。深夜二時半。家族を起こさないようにゆっくりとベッドから下りて、自室を出る。ズキズキと痛む頭に手を当てながら、夕莉(ゆうり)はリビングルームへと向かった。

 冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで飲む。分厚い遮光カーテンを開け、マンションの上階から見える東京の夜景を眺めた。ベランダに出ようかとも思ったが、まだ肌寒い四月の始めの夜なので部屋の中で見ることに決めた。

 頭痛がひどい時には、街の夜景を見ると落ち着いた。下には人工的なネオンの輝き。ミニチュアのような車。上を見ると、ほんの少しの星と黄味がかった真ん丸の月。こんな時、東京の空はなんてきれいなのだろうと思う。すべてが幻で、すべてが飾り物。これくらいがちょうどいい。親戚の家に行った時の田舎の夜空は怖かった。こちらを見下ろしてくる星たちの大群。天の川。音もない世界。静寂に満ちた闇。あれは人間が知ってはいけない世界だ。現地の人たちは、毎日あの底のない得体の知れなさと触れ合っていて、気でも狂わないのだろうか。彼らは何を思い、何を考えているのか。東京の空を見るたびに思い出す。

 窓のそばに椅子を引いて座り、じっとネオンの光を見ていると、ふいにリビングのドアが開く音がした。夕莉は振り向く。兄がいた。苦しそうに咳をしながら、先ほど夕莉がやったみたいに麦茶を飲み、テーブルに着く。

「夜景見ないの? お兄ちゃん」

 夕莉が問いかけると、兄の翠(みどり)はだいぶひどい咳をして、しゃがれた声を出した。

「どうせ見たって治らないから」

 本当の翠の声は渋みのある低音で、十代の男の子の中ではとても大人びた落ち着いたものなのだが、今の彼は持病の喘息のせいでひどい有様になっている。

「気休めでも見たほうがいいよ」

 夕莉はそう言うと兄に手招きをした。翠は少し面倒くさそうな顔をしながらも、黙って椅子を動かして彼女の隣に来た。

 二人は何を話すでもなく、ただじっと真夜中の都会の街並みを眺め続けた。

 

 小さい頃の記憶は、あまりよく覚えていない。ずっと頭が痛くてどこでも泣き喚いていたということしか思い出にない。五歳の時に大きな病院へ行かされ、そこで慢性的な片頭痛だということを知らされた。それ以来、定期的に病院へ行き頭痛薬をもらう日々を繰り返している。

 頭痛は、いつどこで起こるかわからない。学校の授業中でも頭が痛くなったし、家でも突然襲ってきた。痛み止めの薬を常備していて、それがないと気が気でいられなかった。一番困ったのは夜寝ている時だ。頭が痛くて目が覚める。そういう時はたいてい涙が出ている。とある日の夜、母が寝室から夕莉を連れて行ってリビングルームから街の夜景を見せてくれた。その時、不思議と頭痛が和らいだ。心も落ち着いた。母は夕莉を抱きしめて、背中をさすってくれていた。外は綺麗だね。そう言いながら、一緒に夜を過ごしてくれた。

 そして、隣には、いつも翠がいた。

 夕莉と同じように喘息で苦しみ、同じように母に寄り添って窓の外の風景を眺めていた、双子の兄。

 あの頃、唯一心が安らいだのは、母と兄の三人で夜を眺めている静かな時間帯のリビングルームだけだった。

 

 明け方近くになって、ようやく頭痛は治まった。翠も同じタイミングで調子を取り戻し、ふらふらと自室へ戻った。夕莉はその姿を見送りながら、あと二時間は眠れるだろうかと壁時計を見た。四時二十分。コップを注ぎリビングを出る。父と母の寝室の隣にある六畳の部屋が夕莉の自室だ。翠は少し離れた玄関側の自分より少しだけ広い部屋にいる。物置部屋になっている三畳ほどのスペースを挟んで、二人の自室はある。夕莉はドアをそっと閉めるとベッドに仰向けになり、目を閉じた。痛みでこわばっていた身体がゆるみ、眠気がさざ波のように押し寄せてきた。

 携帯のアラームが鳴っていた。寝ていたというよりは気絶していたという状態に近い身体を何とか起こして、アラームを止める。七時だった。朝日は完全に昇り、カーテンの隙間から眩しい光が漏れていた。頭痛は治まっていた。朝の支度を済ませ、パジャマ姿のままで朝食を食べに食卓へ向かう。両親に朝の挨拶をして翠の隣に座る。朝食はスーパーで買ったパンと牛乳で、共働きの両親は出勤前の身なりを整えるためせわしなく動いていた。

「洗濯物干しておいてね。食器洗い機かけてね」

 母から発せられる怒涛のような指示に、夕莉と翠はまだ寝ぼけまなこで適当な相槌を打つ。「あとルンバかけて! 埃たまってるから!」と母は言い残すと最後に「行ってきます!」と叫んで父とともに出て行った。しばらく二人は無言のままパンを頬張ると、どちらからともなく皿を洗って食器洗い機にかけ、翠は全自動掃除機のルンバを起動し、夕莉は洗濯籠に洗い立ての服を入れた。二人が一番遅く家を出るため、朝の家事は二人の仕事だった。

 ベランダに出ると日差しは温かかったものの、ひんやりとした空気が頬に冷たく当たった。まだ本格的な春まで少し遠い、どこか冬の気配が残る青空を見た。白い半月がちょうど夕莉の視線の上にあった。

「……お月様はいいなあ。ただ浮かんでいるだけで皆に美しいなんて思われてさ」

 自分の赤みがかった茶色いセミロングの髪をいじりながらそれだけつぶやくと、夕莉はせっせと洗濯物を干し始める。十分ほどで仕事を終えると、自室に戻って制服を着る。髪をブローしてリップだけを塗り、学生鞄を持って玄関に出た。先に支度を終えていた翠が「おせーぞ」と言いたげな視線をやるとドアを開けた。夕莉は翠のあとに続いて、マンションの共有廊下に出た。

 あんたたちは持病があるのだから、お互い助け合えるようになるべく二人でいなさい。

 それが両親の口癖だった。夕莉と翠は必ずと言っていいほど同じタイミングで具合が悪くなるため、よく一緒の部屋で寝かされた。忙しい両親の代わりに父方の祖母や母方の祖母が交代制で二人の面倒を見ていた。しかし二人の祖母は年のせいで今は介護福祉サービスを受けている。

 中学生となった今でも、二人は一緒に登校している。親からのいいつけがいまだに身体の奥底に染みついているからか、それとも自分に理解のある接し方をしてくれるのは互いしかいないということに気づいているからなのか、夕莉と翠は離れ離れになったことがなかった。しっかりと互いにくっつき、寄り添い合い、今日から通学することになった新しい学校へ特に何の感慨もなく向かうのだった。

 夕莉たちのような子どもを集めた隔離学級―『デイケア学級』のある中学校へと。

 

 モノレール線に乗って停車駅で降りたところで、自分たちと同じ制服を着た子どもたちを見た。しかしその子たちは健全的な雰囲気を身にまとっていて、『普通学級』の子たちなのだとすぐに察しがついた。入学式の時に一度行ったきりなのでこの辺の土地感覚が今ひとつわからず、二人はとりあえずその生徒たちのあとをついていった。駅を出ると最近発展したと思われる賑やかだがどこか素朴な店が立ち並び、そのアーケード街をどんどん進んだ。そこを抜けるとアスファルトの照り返しがきつい傾斜の道があり、その道に入ったとたん嘘のように先ほどまでの人ごみがなくなった。静かな空気が流れるアスファルトの小高い道を、二人と同じ制服の子が歩いていく。夕莉と翠も懸命に足を動かし、坂を上っていく。いつの間にか同じ制服の子どもたちがほかにも大勢歩いていた。皆は楽しそうにおしゃべりを交わしながら、坂道をぐんぐん進んでいく。夕莉たちは何人もの生徒に追い抜かされて、ようやく学校へ着く頃には軽く息が切れていた。

「新学期早々、死ぬっての」

 翠がぼやいた。その投げやりな感じが何とも彼らしくて、夕莉は苦笑した。

 二人の下駄箱は、一般の生徒たちから離れた隅のほうにあった。上履きに履き替え、入学式の時に指示された教室へ向かう。そこは坂の傾斜の関係上、渡り廊下を通った地下へと続く場所だった。下り坂のところに構えている教室で、そのため地下といっても太陽の光は届く。窓の外からは見渡す限りの東京の街並みとその向こうの小さな山々が見える。    

 地下一階。一年生の教室へ入る。クラスの名は『デイケア組』。夕莉はだいぶ緊張して足が一瞬すくんだが、翠のほうは大胆にずかずかと足を運ぶ。あわてて兄のあとをついて、自分と同じ赤みがかった茶髪を目で追う。一番前の席に座り、夕莉と翠は再び無言で時が経つのを待った。

「兄妹?」

 ふと声がかかった。二人は条件反射で同時に振り返った。

 艶のある長い黒髪をハーフアップに結い上げた、優しげな雰囲気の女子生徒がいた。

 夕莉と翠は目を見合わせた。「他人」に声をかけられた時の対処法を、翠が瞬時に見つけ出した。

「うん。そう」

 翠が突き放したように言った。夕莉は黙って目の前のそばかすの浮いた少女を見つめている。若干怯えるように。

「えっと、お兄さんで、妹さんかな?」

 女子生徒はふんわりと問いかけ、微笑んだ。この「他人」は果たして敵か、そうではないのか。夕莉にはまだわかりかねていた。

「ああ。双子」

 翠が言う。少女は「ああ、そうなんだ。そんな気がしてた」とまた笑った。

「私は伊織佳(いおりか)純(すみ)です。青(あお)花(はな)、さん?」

 佳純と名乗ったその少女は入学式の時に配られたプリントを広げた。

「そう。俺が青花翠で、こっちが妹の青花夕莉」

 翠が自分の名を言ったので、夕莉はビクリとした。「他人」にここまで話していいのかと、心配そうに兄のほうを見る。翠は、多分こいつは大丈夫、と目で言った。

「よろしくお願いします」

 佳純はうっすらと浮かんだそばかすでにっこりと爽やかに笑った。夕莉も決心して、ぎこちない笑みで返した。

「……よろしく」

 自分とは程遠い、艶やかな黒髪が記憶に残りそうなほど綺麗だった。

 

 新学期一日目の授業は、国語、数学、英語、情報だった。このクラスは午前授業のみで、午後は『生活体験クラブ』というデイケアサービスに変わり、音楽鑑賞をしたりDVDを観たりする。一番多いのは『ふれあいトーク』という自己紹介のようなスピーチで、自分の好きなものやはまっている趣味などを披露するのである。一般クラスよりも一時間早めに学校は終わり、生徒たちはほとんどどこにも寄り道せずにまっすぐ帰る。中には親が車で迎えに来てくれるケースも少なくない。夕莉と翠は両親が働いているので、夕方の家事をするために家に直帰する。誰かと遊んで帰るなどという発想は今まで一ミリもなかった。

 それが今、二人のそばに歩いている女子生徒が一人。

「青花さんたちはどこに住んでいるの?」

 佳純がふんわりと笑って当たり障りのない質問を口にしていた。

「モノレール線のところ」

 夕莉が黙っていると、翠が代わりに答えてくれた。

「わりと遠いね」

「でも三、四十分くらいだから」

 翠が佳純に話を合わせているのを見て、夕莉はますます縮こまってしまう。佳純は空気を察したように「私はバスなの。また明日ね」と爽やかに答えるとバス停のほうへ歩いていった。

 佳純の後ろ姿が遠くなると、翠があきれたように夕莉を振り返った。

「お前、もっとシャキッとしろよ」

「……うん」

「うじうじオドオドしているから、皆に舐められるんだよ」

「……ごめん」

 翠は溜め息を一つ吐き、「まあ今回は大丈夫だと思うけど」と言って先を歩いた。夕莉も後ろについてくるように足を運ぶ。二人は肩を並べて真昼の春の日差しに照らされながら帰り道を進んだ。伊織佳純は悪い人間ではなさそうだと、夕莉は自分の心に言い聞かせていた。

 

 翌日の体育の授業はバスケだった。

 夕莉はいつものように見学で、体育館の隅っこに正座していた。翠と佳純は出席している。この授業も一般クラスのような本格的なものではなくて、仲間とパスの練習をしたりシュートを入れる回数を競ったりする程度だった。しかしそのレベルの運動も夕莉はこなせない。昔から身体を動かすと決まってひどい頭痛に襲われるからだ。

 今もズキズキと鈍い痛みがうずいている。体育館の中は熱が溜まっていて、埃臭くて暑いくらいだった。夕莉は制服のブレザーを脱いで膝にかけ、ベスト姿になった。あらかじめ持っていた保冷剤を側頭部に当て、時間が過ぎるのを待つ。翠は華麗にシュートを決めていた。佳純もほかの女子と楽しそうにパスを回している。

「おい青花、大丈夫か?」

 体育教師がちらりと視線をやって夕莉に声をかけた。かなりひどい顔色なのだろう。体育教師は心配そうな表情をしていた。

「すみません、保健室行ってもいいですか?」

「そうしなさい」

 夕莉は一言断わり、プレイ中の皆の邪魔にならないようにそろそろと動いた。体育館を出て、廊下を渡り一階の保健室へ向かう。移動教室に使う施設はデイケア組と一般クラスに分かれていない。すべて一緒だ。今日のように体育館や保健室など使う場合は一般クラスの生徒と出会うことになる。それが緊張したが、使わないわけにはいかないので仕方なく行く。一階に着いてデイケア組の教室の道にある保健室の扉を開いた。微かな薬品の匂いと落ち着いた色合いの部屋にどことなくほっとした。

 ここの保健室はかなり大きい。ベッドが全部で五台あり、間隔も広く開けられている。休憩スペースは十人ほどが座れる長方形の真っ白なテーブルがあり、女性の保険医二人が受けつけのように入り口付近のデスクに座っている。

 保険医の一人が「頭が痛いの?」とすぐに夕莉の状態を察してくれた。「はい。ちょっと」と言うと同時に右側頭部がズキンと激しく痛んだ。「一年の青花です。あの……。頭痛もちで、これからたくさんお世話になると思うんですけど」言葉を濁しながらそう告げると、保険医は「実はベッドが空いてなくてね。どうしましょう。ソファーで横になる?」と困ったように視線をうろつかせた。デイケア組の子が使っているのだろうかと思いながら「じゃあそうします」と言ってソファーに座った時だった。

「ベッド空きましたよ」

 翠の声とよく似た低温ボイスが聞こえた。ふと後ろを振り返ると、何やらきつそうな外見をした背の高い男子生徒が立っていた。寝癖のついた黒髪を手串で直しながら、ふわ~と間の抜けた欠伸をしている。

「内海(うつみ)君、具合は直ったの?」

 保険医が「まだ三十分も経ってないけど」と戸惑ったように訊いた。内海と呼ばれた男子生徒は目をこすりながら「俺、眠くてサボっていただけだから。この人のほうが具合悪そうだし」とぼやけた声で言った。そして「あと俺の勘なんだけど、その人、デイケア組でしょ?」と何の悪気もない調子で暴露した。

「まあ、あなた、そうだったの」

 保険医がやけに優しい顔になった。夕莉は気まずくなって思わず内海をにらんだ。内海のほうも「あ?」と威圧的な視線を向けた。しばらく両者はにらみ合った。

「せっかくベッドが空いたんだし、青花さん、しばらく寝ていましょう」

 保険医があわてたように夕莉を促した。ふんと鼻を鳴らして内海のほうをすり抜け、彼がいたベッドに横になる。保険医がカーテンを閉める際、ちらりと内海のことを再び見た。彼はすでに背中を向け「じゃあさよなら~」と扉を開けひらひらと手を振っていた。まだ成長途中の夕莉とは対照的に、程よく筋肉もあり大人びた身体つきだった。その広い背中を一瞬だけ見つめ、ふと兄の翠も成長したらこんな感じになるのだろうかと思った。カーテンが完全に閉まると、すぐに夕莉は寝る体勢に入った。内海の体温が少しだけシーツに残っていた。

 横になっているうちに授業が終わるチャイムが鳴った。結局眠れなかったが頭痛はだいぶ治まり、夕莉はゆっくりと起きて制服のスカートを整えた。外していたリボンタイをつけ、枕元に畳んでいたブレザーを羽織ってカーテンを開ける。「具合はどうかしら?」保険医の言葉に「よくなりました。次の授業は出られそうです」と返してソファーに座った。「兄が迎えに来てくれると思うので、ちょっと待っていていいですか?」

 そう言うと保険医は「お兄さんがいるのね。仲が良いのね」と穏やかに笑った。夕莉は誇らしい気持ちになるのを抑えられなかった。そう、いつだって兄は迎えに来てくれる。弱くて情けない自分をビシッと叱ってくれる。同じ日に同じ時間帯で生まれて、まるで運命のように持病を患って、それでも自分よりはいくらか丈夫な兄。兄が導いてくれるから、さっきのようにデイケア組だということを暴露されてもかろうじて負けなかった。あとで兄に言いつけよう。そういえばあの男子、なぜデイケア組だということを知っていたのだろうか。

 悶々としていると体育の授業を終えた翠がやって来る気配がした。不思議と、翠の迎えはすぐにわかるのだった。足音や歩き方で判断するのではなく、直感で察することができるのだ。

「夕莉」

 扉が開いて、翠が顔を出した。夕莉は立ち上がって体操着のままの兄のそばに行く。

「次の授業はちゃんと出ろよ」

「うん」

 自分と同じくらいの背丈の翠を見て、あの男子は上級生なのだろうかと考えた。そして保険医に「ありがとうございました」と挨拶をして教室に戻る。渡り廊下を渡って地下へ降りる時、翠に内海のことを話した。すると翠は「それ、多分ボランティア部だろ」と答えた。

「ボランティア?」

「うちの学校、デイケア組があるくらいだからそういうことに力入れてるんだよ。ボランティア部は一年から三年までいて、そいつは多分、二年か三年だな。今年入ったデイケア一年の名簿でも見たんだろ。青花って名字は珍しいから」

「ふうん」

 夕莉が納得したように相槌を打つと、翠は続けた。

「ボランティア部は週に一度、俺たちのクラスに来て親睦会みたいなのするんだってよ。ふれあいトークに一般クラスが入ってくるような感じ」

「えぇ……?」

 夕莉は顔をしかめた。「一般人」という丈夫で健康で遠慮がない無粋な人間が自分たちの世界に入ってくるということに、夕莉はまったくと言っていいほどいい印象を抱けなかった。

「いつから来るの?」

「今週だろ」

「早……」

「お前、何も知らなすぎ」

 翠はまたあきれたように妹を見た。「入学式の日に全部説明されただろ。ガイダンスにも書いてあったし。ちゃんと見ろよな」と深い溜め息を吐く。夕莉は「えへへ」と誤魔化すように笑った。一度も告げたことはないが、翠に叱られるのは好きだった。両親が怒る時はひたすら怖いが、翠の怒り方はどこか可愛げがあって嫌な気持ちにならなかった。

 更衣室で別れて先に教室へ入ると、着替えを終えた佳純が「頭が痛くなっちゃったの?」と遠慮がちに訊いた。

「うん。実は私、かなり重い頭痛もちで。またこれからも迷惑かけるかもしれないけど……」

 さらりと自分の持病を話せたことに、夕莉は内心驚いていた。佳純と出会ってまだ間もないのに、ここまで告白できるのは、彼女がお人好しを絵に描いたような見た目だからか。それとも「デイケア組」という安全な檻に囲まれた中で、ある種の心地よさを抱き始めたからか。どちらにせよ、すっきりしたことは確かだった。

「そっか。それは大変だね」

 佳純の言い方は丁寧で、気遣いが感じられた。彼女はどんな事情でこの学級にいるのだろうと問いかけたくなったが、向こうから言いだしてこない限りは詮索しないほうが優しさだろうと思い、やめた。夕莉は佳純と他愛のない話をしながら次の授業の教科書を準備した。翠も制服に着替えて戻ってきて、そばにいた男子たちと楽しそうにしゃべり始めた。お互い友人ができたことで、余裕が生まれた。今日の帰りはそれぞれ別かな、と考えた。

 内海が双子の姉を連れて夕莉たちのクラスに来たのは、それから三日後のことだった。

 

 あの保健室のにらみ合いなどすっかり忘れた頃、夕莉は初対面する一般クラスの生徒たちにかなり緊張していた。担任教諭が「今日のふれあいトークはボランティア部の人が来てくれます」と滑舌のいい話し方でそう告げた際、クラス中に緊張のような張りつめた空気が伝わった。皆、一般人に対して悪い印象しかないようだった。もともと大人しい人たちが集まった教室はますますしんと静まり返ってしまった。

「そんなに怖がるな。皆、誰かを助けたいという気持ちを持った子たちなんだから」

 担任は苦笑しながら言った。それは理解しているつもりなのだが、どうしてもあの明るすぎる空気感が苦手だった。それは夕莉だけでなく、皆も思っていることのようだった。

 そうこうするうちにいよいよ時間が来てしまい、廊下に人だかりができた。一般クラスの生徒たちだ。夕莉は思わず身構えた。周りのクラスメイトも不安そうに顔を見合わせている。

「ボランティア部の二年生が来てくれました。どうぞ」

 担任が教室のドアを開けた。七名ほどの男女合わせた生徒たちがぞろぞろと入ってきた。その中で一人、ぽっと背の抜きん出たスタイルのいい男子生徒が「あっ!」と突然声を上げた。夕莉たちはビクリと飛び上がった。

「青花!」

 重厚感のある低温ボイスに、夕莉は「あ……」と思い出した。

 あの時の「ベッド空きましたよ」と席を外した目つきの鋭い黒髪の男の子が、夕莉のことをまじまじと見つめていた。

 

 ボランティア部は、デイケア組の時間割に合わせて午後の授業を立て替えて行われるため、夕莉たちが帰ったあとにはその分の授業を巻き返さなければいけない。つまりほかの生徒たちより帰りが遅くなるのだ。放課後に部活動を行っている者と同じ時間帯に帰るので、週に一度このような活動をするのはその名の通りボランティアだった。

 内海(うつみ)夏(なつ)央(お)からこのことを聞かされた夕莉は、彼のとうてい親切そうな人柄には見えない鋭い目つきを見て、どうしてこんなことをしているのだろうと不思議に思った。

「俺、下の名前、夏央な」

 彼が自分の名前を教えたので夕莉も簡単に自己紹介をした。「青花ってあまり見ない名字だから、すぐに覚えたな」と夏央が笑うと、意外と愛嬌のある表情になった。翠が言っていた「デイケア組の名簿でも渡されたんだろ」という台詞を思いだし、問うと、夏央は「ああ、そうだよ。一通り覚えてくださいって」と答えた。

 離れたグループにいる翠を見る。兄はすらりとした背の黒髪ショートヘアの女子生徒と何やら話し込んでいる。夕莉の視線に気づいたのか、夏央が「あれは姉の冬(ふゆ)華(か)」と指を差した。そういえば背の高さとスタイルのよさが似ていると思っていると、「お前ら双子だろ? 俺らもだよ」と夏央から意外な共通点が出された。

「どっちが上なの?」

 兄妹構成を訊かれているのだと気づいた夕莉は「兄の翠のほうです」と簡潔に答えた。

「ふうん。夕莉が妹で、翠が兄か。こっちは姉と弟だし、双子同士だな」

 さらっと下の名前で呼ばれたが、嫌な感じはしなかった。

「な、夏央先輩」

 自分も思い切って名前で呼ぶと、夏央は特に表情を変えずに「ん?」と視線を合わせた。

「先輩たちも、同じ時期に具合が悪くなったりしませんか?」

 これは夕莉が前から誰かに問いかけたかった質問だった。翠と夕莉はそれぞれ喘息と頭痛を抱えているため上手く身体を動かせない。一般クラスにいる夏央たちはどうなのだろうと、今まで周りに双子がいなかった夕莉は前から感じていた疑問をぶつけることにした。

「私たち、大体同じタイミングで体調を崩すんです。あの時は体育の授業だったから私だけでしたが……」

「翠のほうは運動できるのか?」

「あ、はい。お兄ちゃんは運動している時は調子がいいんです。激しい運動はできないけど。私の場合は身体を動かすだけで頭が痛くなっちゃって。たいていは季節の変わり目と梅雨の時期に身体が弱ります」

 夏央は「へえ」と興味深そうにつぶやいた。そして「俺らはめったに風邪ひかないからなあ」と頭を掻いた。夕莉は「……丈夫なんですね」としか返せなかった。

「双子は学問的にもまだまだ解明されていないことが多いから、謎だな。お前らのそれも、何か通じ合っていたりして」

 夏央は少し楽しそうに言った。自分と同じ双子という存在がいたことが嬉しいのは、どうやら夕莉だけではないらしい。

「一卵性の人たちは、通じ合ったりするんでしょうか」

「どうだろうな。あまり自分と似ているのも嫌な感じがするかもしれないな」

 夕莉たちは性別が違うため二卵性である。今まで自分の世界には翠しかいなかったが、佳純や夏央たちと出会ったことで、何かが変わるかもしれないことを夕莉は実感していた。

 Aグループの夕莉と夏央は、司会を行っている一般クラスの生徒から少し離れるように距離を置き、こそこそと話していた。トークのテーマが決まり、デイケア組の子が話し始めたところで夏央は「まあ、これからよろしくな」と椅子を引いて周りの人たちの会話に参加した。夕莉も椅子の位置を直して隣にいる夏央の横顔を見た。切れ味の鋭い目つきとは裏腹に大らかそうな雰囲気を纏ったその男子生徒は、「敵」ではないかもしれないと思い、夕莉は警戒を解くことにした。

 Bグループのほうで朗らかな笑い声が起こった。佳純が口に手を当てて上品に笑っている。ボランティア部が何か洒落た冗談でも言ったのだろう。Cグループの翠は夏央の姉である黒髪ショートヘアの女子生徒―冬華とぴったり寄り添ってずっと何かを話している。ふいに胸の奥をじりじりとした日焼けのような痛みが走った。嫉妬だろうか。だとしたら自分は相当嫌な女だ。

 ボランティア部の生徒たちは、明るく話し上手で常にこちらをリードしてくれていた。夕莉たちも少しずつ口を割るようになり、まだどことなく緊張感があったが大きなトラブルもなくその日の午後のふれあいトークは終了した。

 

「お兄ちゃん、冬華さんと何話してたの?」

 帰り道、夕莉は翠に尋ねた。二人はいつものようにモノレール線までのアーケード街を寄り添って歩いていた。

「ん、別に」

 翠の返事はそっけない。昔から無愛想なところはあったが、最近は特にそうだ。感じたこともなかった不安がこの日、種となって夕莉の心に植えつけられた。

「あのね、夏央先輩と冬華先輩は両方とも丈夫でね、あまり風邪をひかないんだって」

「うん、聞いた」

 翠の声はどこか上の空だった。夕莉は懸命に口を動かした。

「夏央先輩は、世話好きな親分肌って感じがした。冬華先輩はどうだった?」

「同じ。姉御肌な女。同性から慕われている感じだった」

 翠は温度のない声で言う。彼はいつも面倒くさそうに夕莉に接していたが、目はきちんと妹の視線を捉えて真っ直ぐだった。綺麗な二重のラインがスッと横に伸びて、その芸術的なほど美しい目の形が夕莉は好きだった。しかし今は、ぼんやりと膜の覆ったような虚ろな瞳で、少しも妹の話に耳を貸していなかった。

 夕莉は不安を抱えたまま、それきり黙って兄の横を歩いていた。心地よかったはずの二人の沈黙が、重苦しくて暗いものになった。

 その日の夜、翠は両親に「話がある」と言って夕ごはん後のダイニングテーブルに居座り、夕莉を部屋から追い出して親と長い相談を始めた。自室に戻った夕莉は寝るまでの時間、ひたすらベッドに座り込んで膝を抱えていた。何かが動く気配がした。自分ではどうすることもできないほどの、大きな運命のようなものが。唯一わかるのは、兄が何か大きな秘密を抱えているということだった。助け合って生きていくことを理念としていたのは、自分だけだったのだろうか。

 真夜中のことだった。また頭痛に襲われた。それは今までとは何かが違う、粘っこくてしつこい痛みだった。自分の無力さを嘲笑しているかのような激しい痛みが襲った。リビングルームに行って水を飲みながら窓の外の夜景を見た。兄が来るのを待った。しかし翠は一向に来なかった。いくら待っても頭痛は治まらず、嫌な予感がした。兄と自分の波長がずれている。どのように修正したらいいのか、夕莉にはわからなかった。

 ソファーに横になりながら、空を見る。濃い黄色の三日月が光っていた。空は晴れているらしい。星を一つ見つけた。一人で見る夜の街は、頼りなく儚かった。それでもまだきれいだと思える自分に安堵して、夕莉はリビングのソファーで朝まで眠った。

 

 両親に心配されながらも、夕莉はがんばって学校に通った。どんなにつらくても学校へ行く。それが家族と交わした約束だったから。

 隣にはいつものように翠がいた。昨日のような地に足のつかない感じはもうなくなっていて、しっかりとした兄に戻っていた。そのことにひどく安心しながら、夕莉は翠にもたれかかるようにして這うように学校へ行った。

 肌身離さず持っている頭痛薬を教室で飲み、机に突っ伏して時が過ぎるのを待った。佳純が「大丈夫?」と優しく声をかけてくれるが、返事をする気力もなかった。

 ようやく薬が効いてきて、昼になる頃には佳純とともに弁当を食べる準備ができていた。

「ごめんね。いつも心配かけさせちゃって」「ううん、平気。夕莉こそご飯食べられる?」佳純は弁当箱を広げながら気を使ってくれる。ふと、彼女は一体どこが悪くてこのクラスにいるのだろうと再び思ったが、まったく健康そうに見える彼女には身体が弱い人間特有の「隙」というものがなくて、質問することも夕莉にはできそうになかった。

 教室のドアが開いた。その瞬間、クラスの気配がピリッとした張りつめた空気になった。何だろうと思い振り返ると、そこに見慣れない顔があった。

 一般クラスの女子生徒だった。人工的に染めた明るい色合いの茶髪が、肩のあたりで綺麗にくるくる巻かれていた。猫目を思わせる愛らしい瞳が、その場の緊張感にも動じずきょろきょろと辺りを見回していた。その女子生徒は物おじせずに夕莉の兄の名前を呼んだ。

「青花翠君、いますか?」

 女の子らしい軽やかな甘い声で、その女子生徒は言った。翠はトイレにでも行っているのか、教室にいなかった。

「いないのか。じゃあ誰か、青花君に早くアレ返してって伝えてくれる?」

 女子生徒は堂々と振る舞っていた。皆は顔を見合わせて、その気の強そうな女子生徒に怖気づいている。夕莉は兄のことが気になって、勇気を出して席を立った。

「あの、私が伝えます」

「おー、サンキュー」

 夕莉はおずおずと近づいて、相手の名前を尋ねた。女子生徒は「飯塚(いいづか)舞(ま)衣(い)。二年。顔似てるね。兄妹?」と軽い調子で言った。

「妹です」

「双子か。あいつ、何も言ってないぞ。むー」

 舞衣と名乗った少女は口を尖らせた。

「名前、教えてくれる?」

 そしてすぐにパッと表情を変えた。

「青花夕莉、です」

 そう答えると、舞衣は「ああ、ここデイケア組だっけ。ごめん、ごめん。怖がらせちゃったね。でも取って食いやしないよ」と笑って「伝言よろしくねー」と去っていった。一般クラスの舞衣が姿を消すと教室に張っていた緊張が一気に緩んだ。佳純がそれとなく近づいて「翠君と知り合いなのかな?」とつぶやいた。夕莉は、あの日、翠が冬華と何か話し込んでいたのはこの子と関わりがあるのかと思い当たった。

「……ちょっと派手な人だったなあ」

 口からそんな言葉が漏れていた。とりあえず兄が戻ってくるのを待とうと、夕莉は伝言を告げるために席に戻った。

 帰ってきた翠に舞衣のことを伝えると、渋い顔をされた。「ったく、あいつ、せっかちだな」と不機嫌そうにブツブツ言いながら翠は学生鞄を探り、一冊の本を取り出した。いわゆる自己啓発の書物らしい。カバーがかけられているので完全には読めなかったが、『……の方法』という字体がでかでかと印刷されているのが見えた。

「それ、何の本?」

 試しに訊いてみたが、翠は「借りてたやつだよ」という曖昧な返事をしただけだった。舞衣という少女とどのようにして知り合ったのか推測して、夕莉はそれとなく尋ねた。

「……冬華先輩を通して借りたの?」

 蚊の鳴きそうな声になっているのに自分でも驚いたが、翠が一瞬、物悲しい顔になったことに何かがパチンと弾けた。

「他人は敵じゃなかったの?」

「お前こそ夏央先輩と仲良くなっただろ」

「約束したじゃない。互いしか必要としないって。親からも言われていたじゃない」

 声がかすれて、泣きたくもないのに涙声になってしまった。情けなく思いながらもあふれた思いは止まることを知らず、夕莉は一つの真実にたどり着いた。

「……一般クラスに移るの?」

 翠は答えない。茶色がかった瞳だけが事実を述べていた。

「いつから? どうして? ここを捨てるの? せっかく見つけ出した場所なのに」

 本当は、こんなところどうでもいい。ふれあいトークとか馬鹿馬鹿しい。コミュニケーションの勉強をしたって、心のケアをしたって、救われない時は救われないのに。

 あの時から、自分の唯一の味方は兄の翠だけだったのに。

 夕莉は周りの視線も構わずに大きな声で問いかけていた。翠が淡々とした声で言った。

「二学期から一般クラスに編入する。そのための参考書とかを冬華先輩たちに借りていた。ずっと前から決めていた」

 昨日の今日で知り合ったばかりなのに、どうやって参考書を借りる仲まで行ったのだろう。翠はフットワークが軽いほうではない。夕莉ほどひどくないが、かなりの人見知りだ。それなのにこの親密度は不自然だ。

「……最初から知っていたの? 先輩たちのこと」

 合点が行くのにそう時間はかからなかった。翠はおそらく、夏央たちに名簿を渡す係を頼まれたのだ。いや、自分から志願したのかもしれない。夕莉に気づかれないように一般クラスのボランティア部と接触し、「一般人」の仲間入りを果たすために関係を築いた。

 デイケア組の入学式の日、翠は「ちょっと待ってて」と夕莉を一階のホールに待たせていた。

 待った時間はそれほど長くなかった。きっと忘れ物でもしたのだろうとしか思わなかった。職員室はホールから少し遠い。しばらくすると翠が何事もなかったかのように帰ってきた。夕莉は何も疑問に思うことはなく、翠と帰路に着いた。

 あの時、すでに翠は決心していたのだ。一般クラスに移ると。そしてその頃には、とっくに親と話し合いがついていたのだ。昨日の晩の相談とは、最終的な確認のことだろう。翠は夕莉を置いていく。妹から離れていく。夕莉は一人ぼっちになる。そのことに本人が一番耐えられなかった。

「夏央先輩も、冬華先輩も、皆グルだったんだ」

 身体が震えている。これは怒りか、悲しみか。夕莉はキッと兄をにらんだ。翠は無表情だった。能面のような顔でまた淡々と言葉を紡いだ。

「先輩たちは、お前を騙していたわけじゃない。俺たちが双子だということまでは話していないし、俺は単にいずれあなたたちの学級へ編入するつもりです、と言っただけだ」

「でも、私に隠し事していたじゃない」

 わなわなと震えながらそれだけを言うと、もうそれ以上の台詞が口から出てこなかった。言いたいことは山ほどあるのに、言葉のサインを送る脳の部分が麻痺して喉から音にもならない喘ぎが出ただけだった。

「……バレたの意外と早かったけど、そういうことで、俺はもうここには来ないから」

 翠は鞄を下げて席を立った。夕莉のことを振り返ることもなかった。

「午後はただのトークだから俺サボるわ。もっといっぱい勉強したいし、担任にも頼んで編入試験のための課題もらっているから。じゃあな」

 まるで逃げるようにして翠は教室を出て行った。周りのクラスメイトがざわざわと翠のことを話し始めたが、夕莉の耳には兄の「じゃあな」という別れの言葉だけが響いていた。周りの声が聞こえない。佳純の顔も見えない。気がつくと夕莉は放心したように涙だけを流していた。

 ズキリと頭が痛んだ。とたんに猛烈な痛みが襲った。夕莉は頭を抱えてその場に泣き崩れた。もう自分たちは同じように体調を崩さない。一緒の部屋で互いを気遣いながら他愛のない話をすることもない。寄り添い合って学校への道を歩くこともない。帰ることもない。すべてが突然終わったのだった。

 誰かが夕莉の腕を取って、立ち上がらせた。細い指先から女子生徒だと思い、佳純の顔がぼやけて見え始めると夕莉はふいに泣き止んだ。頭は変わらずひどく痛んだが、佳純がそっと背中を撫でながら夕莉を連れて行ってくれたので、絶望のような感情はふと薄まった。佳純はそのまま夕莉を外の世界へと連れ出した。

 四月の半ばの空気は爽やかだった。日差しが燦々と降り注ぎ、昼間のこの時間帯には若葉の匂いもした。人気のない中庭へと行き、授業中のクラスの死角に入るように隅っこへ寄ってベンチに腰かけた。すると不思議と落ち着いた。

「ごめん……。私、また馬鹿やっちゃって……」

 夕莉がぐずると、佳純は母のように背中をさすり続けた。

「……私たちね、小さい頃は特に仲良かったわけじゃなかったの」

 佳純が「うん」と相槌を打ってくれる。その優しさにすべて委ねようと夕莉は洗いざらい話した。

 二人は手のかかる子どもだった。四六時中泣くしすぐにお腹を壊すしミルクは吐くし、双子だったせいか両親は軽い育児鬱になりかけていた。

 父方か母方か今ではもう覚えていないが、祖母が「こんなに泣くのはおかしい。どこかが悪いのかもしれない」と言って二人を病院へ連れて行き、検査を受けた。そこで初めて夕莉は慢性的な頭痛、翠は喘息発作と知らされた。五歳になる頃だった。

 夕莉の頭痛と翠の喘息は、たいてい夜中に起こった。両親が電気をつけて二人の看病をした。母が夕莉たちに街の夜景を見せた。すると二人とも大人しくなり、なぜか症状も治まった。それ以来、両親は子どもに言い聞かせた。「あなたたちはほかの子より身体が弱いのだから、お互いに助け合って生きていきなさい」と。

 小学校に上がった時、二人はいつどんな時でもくっついていた。相手に何かあった場合、すぐに助けられるようにと。

 しかしクラスは、別々になった。

 一年生の二人は頻繁に体調を崩し、まったく同じタイミングで保健室へ行ったり学校を欠席したり遅刻、早退を繰り返した。朝八時半から昼の三時まで体力が持たないのだった。二人はだんだんと衰弱していき、二年生になる頃には「病弱兄妹」と学年の名物にされて有名になってしまった。二人は―少なくとも夕莉のほうは、ますます互いに依存していった。代わりにノートを取ってくれる友達も教科書を見せてくれるクラスメイトもいなかった。勉強に遅れが生じた。もう何もかもどうでもよかった。

「お兄ちゃん、もう死んじゃおうよ。そのほうが楽だよ」

 熱にうなされて一つの部屋で布団にくるまっている時、夕莉は隣のベッドで寝ている翠に助けを求めた。「死」とは、助けだった。

「こんなポンコツの身体、捨てたいよ。生まれ変わりたい」

 他人はいつだって冷たかった。夕莉と翠に理解のある接し方をしてくれる者などいなかった。生徒も教師も同じだ。自分をわかってくれるのは親とこの片割れだけだ。

「うん。いいよ」

 翠が苦しそうに咳をしながらもそう答えたのが聞こえた。夕莉は翠と見つめ合った。彼の目にはちゃんと自分が映っていた。

「いつか死のう。絶対に」

 翠は、はっきりと言った。

「……いつがいい?」

 夕莉が泣きながら問うと、翠は天井を見上げた。

「小学校を卒業したら」

「……わかった」

 二人は死ぬことを誓い合った。具体的な日にちは特に決めなかった。ある日ふと、兄が「そろそろ死のうか」と言ってくれるのを今日に至るまで待っていた。

 中学生になれば死ねると思った。卒業式には出なかった。まるで運命のように二人とも病状が悪化したからだった。

 両親が学校を下調べして、このデイケア学級がある場所を突き止めたのは、二人が死を決意してからしばらく経ってからのことだった。

 デイケア組には受験勉強がない代わりに、面接と診断書が必要だった。「ここに入れば生きるのも少しは楽になるよ」と両親が優しく諭してくれるのを、夕莉はただただ申し訳なく思った。自分たちはもうじき死ぬ。兄が合図を出してくれる。だから他人などいらない。自分たちに未来などないのだから。

 しかし兄はいつの間にか変わっていた。生きる決意をしていた。夕莉にも気づかれないほど、一人で生きようとし始めた。

 私は一体どうなるの?

 叫びたくなった。この激しい感情をどこにぶつければいいのかわからなかった。怒りなのか悲しみなのか憎しみなのかもわからないまま、夕莉は佳純に昔の話を打ち明けていた。

 話が終わると、佳純はギュッと夕莉の手を握った。

「いい天気だね」

 そう言って、空を見上げた。夕莉もつられて顔を上げると、筋状の白い雲が薄く伸びた真っ青な空が、きらきらと日の光を落としながら一面に広がっていた。

「今が一番いい時期だね」

 佳純の手は温もりがあった。

 夕莉の目にまた涙がにじみ出てきた。もう何度泣いたのかわからない。どんなに泣いたところで現状がよくなることもないのに。それでも泣かずにはいられなかった。

「助けてほしいわけじゃない」

 夕莉はしゃくり上げながら、精いっぱいの抵抗を言った。

「たとえ助けられても、私は何もできないポンコツな人間だって、わかるだけだから」

 佳純の手を強く握り返す。彼女もそれに応えるように手の力を強める。

「同情なんか、いらない。かわいそうって言葉が、一番嫌いだ」

「うん。私も」

 佳純は落ち着いていた。夕莉の泣き声が大きくなった。

「こ、これから、生きなきゃいけない。私一人じゃ死ねない」

「うん」

「でも、どうしよう。どうやって生き残ればいいの」

「私もわからない」

 佳純がボソッと言った。夕莉は小さな子どものように泣きじゃくる。

「お、お兄ちゃん、いつか話してくれるかな。どこで変わったのか、教えてくれるかな。もう会えないかもしれないけど」

 佳純は何も言わなかった。

「わ、私、もう行かなくちゃ。お兄ちゃんに追いつかなくちゃ。今さら遅いけど」

 佳純の掌が汗ばんでいた。それともこれは自分の手汗かもしれない。

「が、がんばらなくちゃ。そう思わないと、勝てないよ」

 私は、何に勝てるのか。私に勝つ手段が残されているのか。

 空を見上げた。佳純の言う通り、本当にいい天気だった。進まなければいけない。夏央や冬華たちを、もっと知っていかなければいけない。知ることは、繋がることだ。

 自分が何の役に立てるのかはまだわからない。ただ掌に佳純の体温があった。柔らかくて湿った、小さな手だった。この手を握ることに、意味があるのだろう。

 呼吸を整える。空に浮かぶ飛行機雲を見上げる。夕莉は立ち上がって、佳純と一緒にもっと日の当たる場所に出た。

 大きく伸びをした。なぜだか急に身体を動かしてみたくなり、ストレッチをした。佳純も気持ちよさそうに太陽の光を浴びている。

 一般クラスの授業が見えた。窓際の生徒たちがこちらに気づいて怪訝そうな顔をする。夕莉は、あそこに兄が行くのか、と教室を見つめた。一人と目が合った。すぐに視線をそらされた。思わず佳純と笑い合った。

「案外ビビリだね」

「皆そんなもんだよ」

 夕莉は歩き出した。デイケア組の教室へ。「もうふれあいトーク始まっちゃったなー。今から行くの気まずい」「じゃあサボっちゃおうよ」佳純が楽しそうに言うので、夕莉も「どこにしようか?」と笑った。

 ホールへと続く中扉を開けて、夕莉は一歩を踏み出した。まだ若干震えている身体を佳純に悟られないように、足を踏みしめた。

 隣では、佳純が微笑んでいた。

 

  ➡続きます。

 

○全3話で完結します。9万字程度の中編小説であります<m(__)m>。

名前変えてぇ…………( ;∀;)。

お久しぶりですー。

ふらふらで生き残っております(;´∀`)。

 

しばらくはてなブログにて生息しております。投稿サイトはひとまずお休みです。お前何回休んでんだよっていう苦笑。

 

が、がんばるもん(;´Д`)アワワ。無理しない程度にがんばるもん。(;´Д`)

 

そうそう、「ヲタ活。」と「花凜芸術」も開いたことだし、しばらく3つのサイトを切り盛りしていきますね。私のことだから1つ消えるかもしれん( ;∀;)すまぬ……。

 

最近、2000年代ミュージックが懐かしくてずっとポルノグラフィティさんや中島美嘉さんなどをヘビロテしてます💛( *´艸`)フフ。

宇多田ヒカルさんも好きですね~!

J-POPと洋楽がミックスされたあの感じが好きです💛

 

2010年代に入ってスマホがめちゃ進化したイメージが私の中にあるんですが、いつ頃携帯電話が【スマートフォン】になったのかな?2009年?機械に詳しくなりたい……。

 

 

 

7月に入ったら「テキストレボリューション」また行けるかな?

創作同人誌仲間さんたちに早く会いたい(*‘∀‘)ワァ~。

 

先に夢を掴んだ先輩方おめでとうございます!!叫。(=゚ω゚)ノ

 

今は今週のお題にかこつけて一次創作をやりたい気分の桐原でした。

 

ペンネームに悩む日々(笑)。

 

ぼくの名を呼んでほしい【Please, Call my name……,】2

 red-pink16.hatenablog.com

 

 お待たせしました。続きです(;´∀`)。

 

第2話+ 「悲しい顔はやめてよ」

 

 佐藤涼は、栗名のことが好きだ。

 彼を描くようになってから、ますます好きになった。

 何て素晴らしい作品《モデル》なのだろう。

「おい、帰る時間だぞ」

 小さい男が何か言っても気にしない。涼は芸術を愛し、芸術に愛される人間だから。

「おーい」

 馬鹿っぽい男の声が聞こえても、涼は逸る心を抑えられない。栗名はちょっと悲しそうな顔をしている。

「泣いてるぞー」

 馬鹿男の声は決まって乱れている。耳障りなノイズだ。

「生まれつき持った身体を笑うな」

 イケメンが渋い表情で涼を見ている。

「こっちを描こうかな」

 涼は、栗名から視線を外した。

 途端、何かがすごい勢いで飛んできた。

 学生鞄だ。

 頭に衝突音が走る。

 涼は、

「栗名……」と言いながら、ゆっくりと果てた。

「死ね!! てめえマジで死ね!!」

「生きてる価値がねえ……」

「お前ら、それは言い過ぎだ」

「どうしよう、涼が起きない……」

「帰ろうぜ」

 佐々鈴蘭《ささ すずらん》は栗名の腕を引っ張り、強引に引きずっていく。

「スズー、鞄」

『スズ』は、彼の愛称だ。茶色く染めた頭に、可愛らしい見た目で女子に人気がある。もちろん彼を嫌う女子もたくさんいるが。

 男たちは「スズ」よりも、「ミイ」と呼ぶことが多い。「ムーミン」の意地悪で皮肉屋な小さい女の子を、そのまま彼にあてがった名前だ。つまりは、揶揄である。

 どいつもこいつも馬鹿にしやがって、と、鈴蘭は毎日ぶち切れている。しかし身長が低いので、どれほど怒鳴ろうが暴れようが、誰にも本気にしてもらえない。鈴蘭はそれが悔しかった。チビがそんなに悪いかと、一度栗名に食ってかかったことがある。八つ当たりだった。栗名は、絶対に怒らなかった。どれほど挑発しても栗名は動じず、にこりと笑っていた。ただそれが、女子の言う「爽やか系」とは程遠い表情だったのが、鈴蘭は気にかかっていた。

あの時の彼の顔は、「虚無」。

 栗名の目は死んでいた。

 鈴蘭の顔を見ながら、全く別の何かを透けて通したように、薄く微笑んでいたのだ。

 怖かった。

 不気味だった。

 あの日から、鈴蘭は誰彼構わず怒ることを、やめた。

   +☁+

「出たー! 『幽霊』が来たー!」

 昼にもなっていないのに騒がしい晴希の声で、鈴蘭は無理やり起こされた。

「うるせえな……」

「今日は『幽霊』見れたんだよ!」

「どこにでもいるだろ、霊なんて。大体あれは脳みその仕組みから出来る、一種の思い込みなんだよ」

「ほら、スズ! あいつ今日も餌やってるよ!」

 首をグキッ、と回された角度で見てみると、なるほど確かに、『幽霊』はいた。

「なぜ傘を持っていない……」

 さすがに鈴蘭も呆然とする。

『幽霊』は、土砂降りの雨の中、中庭にしゃがみ込んでいた。もちろんずぶ濡れだ。

「今日はゲリラ豪雨だぞ……?」

「雷に打たれて死ぬかな、あいつ」

「いや……、その前に、誰か先生呼べよ……」

「あっ、栗名だ!」

 大ぶりの傘を持った栗名が、同じくあわてて傘を持ってやって来る飼育委員の顧問と一緒に、『幽霊』に向かってダッシュしている。

「あいつ本当に優しいなー」

晴希が感心したように呟く。

「……そうだな」

 いつだって、栗名は優しい。

   +☁+

 上で様子をうかがっていると、栗名は、『幽霊』と一緒に校舎の玄関口まで戻って来た。

 とりあえず出迎える。

「お疲れー」と晴希。

「そいつ、どうすんの?」

 鈴蘭は頭のてっぺんから足の先まで水に濡れている男子生徒に一瞥をくれた。

「お前、名前は何て言うの?」

 栗名が優しく問いかける。

「……溝ノ口《みぞのぐち》」

 男子生徒はボソッと言った。

「誰?」

「知らない」

 鈴蘭は晴希と値踏みを始める。

「暗いなあ、お前」

「誰にいじめられてるの?」

「……いじめじゃないです」

 溝ノ口は蚊の鳴くような声で返した。

「……傘を置いてきたんです」

ゲリラ豪雨の中?」

 鈴蘭は顔をしかめた。この男は精神的に大丈夫なのだろうか。

「栗名、こういうのと関わったらいけないんだぞ」

「スズ、またお前の悪いところが出てる」

 栗名は諫めるように鈴蘭の方を見た。

 少しイラッとする。

「いやいや、お前お人好しだからさあ」

 吐き捨てるように言って笑うと、栗名が一瞬、あの時の「目」をした。

 薄い微笑み。

(……何でそこで黙るんだよ)

 鈴蘭は居心地が悪くなる。

「多分、君が子どもだからじゃないかな」

「うぉっ!?」

 佐藤! と、晴希が変な声を出した。

「いつの間に出現したんだよ!」

「栗名が見えたから追いかけてきたんだ」

 佐藤涼は堂々と言い放つ。

「変な行動ばかり起こしてると、女子がいろいろ騒ぐぞ」

 せめてもの嫌味で、鈴蘭は冷たい目を涼に向けた。

 佐藤涼はまったく動じない。

「僕は女子も好きだ」

「聞いてねえ!」

 我慢できなくなり、鈴蘭は怒鳴った。

「大体お前、何だよ!? ストーカーみたいに俺らのグループ入りやがって! 周りから仲良し五人組って見られてんだぞ!!」

「僕にとっては好都合だ」

「俺にとって不都合だ!」

 なぜこいつは、これほど会話を理解しないのだろう。言葉のキャッチボールがなってない。まるで違う惑星に住む某ゆうこりんだ。

 何だろう、この感じは。ゴーイングマイウェイを通り越して、サイコパス、いや、もっと、こう……。

「佐藤って、友達とかいなかったの?」

 晴希が聞く。

「ああ! そうだ、『ぼっち』だ!」

 頭の中に電球があるとしたら、こういう感覚だろう。鈴蘭は、パッとひらめいた。

「お前、『ぼっち飯』とかやってただろ。友達いなさそうだもんな」

「スズ!!」

 びくっ、と、鼓膜を震わせる声。

 栗名が険しい顔をしていた。

 鈴蘭は、硬直する。

「……あ」

 晴希が空気の変化を敏感に感じ取り、おろおろとあわて出す。

 栗名は、きつい目つきで、こちらを窘めるでも罵倒するでもなく、睨んでいた。

 鈴蘭は声が出なくなる。

 栗名を見ていると、とても長くそばにいて見ていると、分かる。

 栗名は優しい。穏やかな人間だ。

けれど彼の中には、誰にも触れない、ある種のボーダーライン(、、、、、、、)が引かれている。

 それは栗名自身も自覚していない、本人の「聖域」だった。

『人を悪く言うな』

『人を無意味にからかうな』

『間違ったことをするな』

 栗名紅葉は、とても正しい。

正義感の強いまともな男である。

 だからこそ、鈴蘭は。

(…………うざい)

 時々、猛烈に彼が、うっとうしくなるのだ。

「その表情、いいね」

 佐藤涼はスケッチブックを広げていた。

「絵を描くのかよ」

 晴希が呆れている。

「今、鈴蘭君がもどかしい表情をしていたから、紙に写しておこうと思って」

 その場の空気は、一気に間の抜けたムードになった。

 栗名の顔つきは、優しくなっている。

「お前、本当に面白いよな」

「そう?」

 栗名と佐藤涼は、談笑を始めた。

 前はそこに、鈴蘭がいた。佐藤涼は部外者のはずだった。

 女々しい感情は、嫌いだ。

 ウジウジ悩む自分など許せない。

 腹の内で暴れる負の感情を、鈴蘭は八つ当たりにして返した。

「そもそも溝ノ口は何してんだよ。濡れるのが趣味なわけ? 最初から傘が無かったわけじゃねーんだろ?」

 ギロリ、と、下でしゃがんでいる男子を見下ろす。

 溝ノ口は、青白い顔をして、再び細い声を出した。

「通学途中に、猫と犬を見つけたんです……。捨てられたペットみたいで……。雨の中、寒さをしのぐ屋根もないのは、あんまりだと思って……」

「え、それギャグじゃないよね」

「この学校、電波系多いよな」

 鈴蘭は晴希と顔を見合わせて、冷や汗を浮かべた。

『木立《こだち》学園高等部』は、こんな変人揃いの学校だったのか。

 ここは元々、女子校だった。

 平成に入った頃に別の学校経営グループと合併して、男子を多く取り入れ始めたのは、記憶に新しい。と、教師たちはいつも授業中に語っている。

ここは『木立《こだち》女学院』という名前の、いわゆるお嬢様学校だったと。

 だからか、入って来る生徒も、大人しくて物腰の柔らかい人が多い。それなりに自由で、校則は厳しくない。特に荒れた生徒も見かけない。ただし電波がいるとは思わなかった。

「あと……、これを、渡そうと、思って。あ、濡れちゃった……」

 溝ノ口が細々とつぶやく。

「雨だからね」

 佐藤涼は真顔で対応する。

 溝ノ口は言葉を続けた。

「あ」

「あ?」

 言葉のリレーがなってないぞ、と鈴蘭は言おうとして、

「……あ、あの、ば、ば、ばば」

「ん?」

 栗名が聞き取ろうと、顔を寄せた。

「馬場、直純君、に、渡したかった……」

 溝ノ口がブレザーの内ポケットから、何かを抜き取る。

 それは手紙だった。

「馬場直純君へ。かねてより、馬場君の部活に頑張る姿をこの目で見届けてきました」

「あの、読まないでください……」

 手紙をひったくった鈴蘭に、溝ノ口は抵抗する。鈴蘭は素早い身のこなしで溝ノ口の手を簡単に振りほどき、

「馬場ちゃーん」

 中庭を逃げ去った。

   +☁+

鈴蘭は、悪戯が好きなわけではない。

 ただ、荒れてる人や内向的な人を見ていると、なぜもっと上手く世を渡れないのか、イライラしてくるのだ。

 その点、直純は立ち回りも器用だし、理性で動く性格だから感情を曝け出すような真似もしない。鈴蘭にとって、直純は中学一年時からの付き合いだ。もはや精神安定剤である。栗名とは少し違う。あれとはもっと後になって出会った

 鈴蘭は溝ノ口を冷やかしながら、さっそく二年一組の教室へ戻った。溝ノ口は抵抗することに諦めたのか、途中からぐずぐずした態度で鈴蘭の後ろをヒヨコのようにくっついて歩いている。飼育委員の顧問は「お前、服を着替えなさい!」と怒りながら溝ノ口の頭を拭いて、並んで歩いている。間抜けな絵だと思う。自分でも何をやっているのか、鈴蘭は自分自身で呆れていた。

「いたぞー、溝ノ口」

 鈴蘭ははしゃぐ。直純はちょうど教室の窓ガラスから顔を覗かせたところだった。

「何やってんだ? 群れみたいなの作って、すげえ目立ってるぞ?」

「こいつが話あるんだってよ」

 ドン、と溝ノ口の背を押して、鈴蘭はにやついた。面白くて仕方がないからだ。他人のラブレターほど見ていて楽しいものはない。

 溝ノ口はおろおろと怯えている。

「用があるんならはっきり言えよ」

 鈴蘭はわざと強い口調で言った。栗名が目の端に映る。栗名の目は、悲しんでいる。鈴蘭の胸はざわ、と一瞬、揺れた。

(何だ、こりゃ)

 またイライラする。

 溝ノ口が言った。

「好きです」

「…………ん?」

 直純の両の眉がクイッ、と上がる。

「好きです。僕と、付き合ってください」

 溝ノ口が言った。

 …………え。

 今、何が聞こえたの。

 鈴蘭は空耳を疑った。

「まあ、別にいいけど」

 は。

 おい?

「すす、好き、ということでしょうか?」

 溝ノ口の声が上ずっている。

「そこまでは付き合ってみないと分からない」

 直純が言った。

 直純は憮然と、クラス全員の見ている前で、ふむ、とうなずき、

「……友達から始めるか」

 一人で納得していた。

 少しかすれた直純の低い声が、鈴蘭は好きだった。

 馬場直純よ。

「お前、スマホのアドレス持ってる?」

「は、い」

 悪い夢なら覚めてくれ。

 鈴蘭は気絶しそうだった。

「これが俺の連絡先。後で送って」

「……はい」

 溝ノ口の目はもはやハートだ。

 女子たちが、「うおおおおおっ!!」と雄叫びを上げて死んでいっている。

「ああいう男になりたい」

晴希が呆けている。

「なりたくはない」

鈴蘭は言い捨てた。

 佐藤涼は鈴蘭のそばで、栗名の横顔のデッサンをひたすら描き殴っていた。

 

 

 

 続きます。